環境保全型農業レポート > No.200 薬用石鹸成分,トリクロサンの生物への影響 |
||
□ |
No.200 薬用石鹸成分,トリクロサンの生物への影響
●パーソナルケア製品とトリクロサン人々が医師の処方箋なしで購入できる,健康のための医薬部外品,化粧品や芳香剤などの製品は,パーソナルケア製品と総称されている。因みに,日本では人間用の製品が対象だが,アメリカでは同様な目的で使用される家畜用の製品も対象にされている。 手洗い石鹸,スキンクリーム,歯磨き,防臭剤入り石鹸など,毎日使用されている広範囲のパーソナルケア製品に,合成防腐剤や抗菌剤として広く使用されているのが,トリクロサン(Triclosan:5-クロロ-2-(2,4-ヂクロロフェノキシ)フェノール)である。トリクロサンは脂肪酸合成系の酵素を阻害して細菌や植物の細胞膜を破壊するとされ,40年以上前に抗菌剤として導入されている。最近では,抗菌・防菌製品の要請の高まりとともに,プラスチック製まな板,スポーツ用品,靴,家具などの多数の製品で,トリクロサンがますます使用されてきている。2005年における世界の年間生産量が約1,500トン,そのうちの450トン超がヨーロッパとアメリカでパーソナルケア製品に使用されているとされている。
●トリクロサンの生態系影響リスクを警告した文献トリクロサンは,人体の外側で使用される製品に使われており,代謝変換されることなく,洗い落とされて,排水管を経て排水として下水処理プラントで処理されている。この処理によって,トリクロサンの58%から99%が除去されている。しかし,下水処理プラントはこうした微量物質には十分に対応していないため,除去されなかったトリクロサンが河川や湖沼などの表流水に排出されている。また,トリクロサンの約30%は下水汚泥に保持されるため,下水汚泥堆肥を農地に施用すれば,農地土壌に持ち込まれることになる。したがって,下水処理施設からの表流水への排水と,汚泥堆肥の農地施用が,トリクロサンの環境放出の2つの最も重要な系路となっている。 こうして表流水に放出されたトリクロサンの生態系影響については,最近,急速に関心が高まり,多くの研究がなされている。そのなかで,緑藻類を用いて,トリクロサンが水中の生物に悪影響を及ぼしている可能性を指摘した研究の1つとして下記がある。 Peter Carsten von der Ohe, Mechthild Schmitt-Jansen, Jaroslav Slobodnik and Werner Brack (2012) Triclosan―the forgotten priority substance? Environmental science and pollution research international (2012) 19:585–591 また,下水汚泥の土壌施用によって土壌生物を含む野生生物が影響を受ける可能性を示した研究の1つとして下記がある。 Fuchsman P, Lyndall J, Bock M, Lauren D, Barber T, Leigh K, Perruchon E, Capdevielle M (2010) Terrestrial ecological risk evaluations for triclosan in land-applied biosolids. Integrated Environmental Assessment Management 6:405–418 これらの概要を紹介する。
●エルベ川流域河川のトリクロサン濃度ドイツ東部にあって,チェコと国境を接しているのがザクセン州である。エルベ川がチェコから流れてきて,ザクセン州の中心を通過して北海に流れて込んでいる。ザクセン州には,エルベ川を中心に572の水系が存在している。von der Oheら(2012)は,572の水系に総計802のサンプリングサイトを設け,各サイトで2006年から2008年の間に1から155のサンプルを採取し,総計6,756サンプルを採取して,トリクロサン濃度を分析した。その結果,サンプル総数の62.7%からトリクロサンが検出され,検出濃度の中央値と最大値は,それぞれ13と1,100ナノグラム/リットルであった。
(注)ナノグラム(ng)は10-9グラム:1グラムの10億分の1。
●トリクロサンの水生生物に対する影響既に他の人達が行なったトリクロサンの水生生物に対する影響の結果は,次の通りである(von der Ohe, 2012)。以下に示した結果は,投与直後から数日以内に発現する急性毒性を,試験生物の半数に死亡,成長,遊泳,繁殖などに影響が出る濃度を示す「半数影響濃度(EC50)」によって示してある。
(注)マイクログラム(µg)は10-6グラムで,1,000ナノグラム。 ・ミジンコ(Daphnia magna)の死亡率で,390 マイクログラム/リットル ・ユスリカ(Chironomus tentans)の生存率で,3,000 マイクログラム/リットル ・魚(ファットヘッドミノーPimephales promelas)の死亡率で,260マイクログラム/リットル ・イボウキクサ(Lemna gibba)の生育阻害で,62.5マイクログラム/リットル ・単細胞緑藻類のイカダモ(Scenedesmus subspicatus)の生育阻害で,1.4マイクログラム/リットル ・珪藻綱(Skeletonema sp.)の生育阻害で,66マイクログラム/リットル ・標準的試験生物の単細胞緑藻類Selenastrum capricornutumの生育阻害で,4.7マイクログラム/リットル このように,水生生物のなかでは,単細胞緑藻類がトリクロサンの影響を最も敏感に受けている。 そこで,von der Oheら(2012)は,標準試験のSelenastrum capricornutum(単細胞緑藻類)を用いて,95%の個体に急性毒性のでない無影響濃度を調べた。その値は4.7 ナノグラム/リットルと推定された。なお,この値は影響のない濃度であり,急性毒性の半数影響濃度に比べれば1,000倍も低かった。 分析したエルベ川の75%のサイトがこの値を超えていた。各サイトにおける最大環境濃度の95パーセンタイル(100個の値のうちの小さい順に数えて95番目の値)は,無影響濃度を12倍も超えており,藻類群集に対する潜在的な危険性が示唆された。
●なぜトリクロサンは法律で優先物質として指定されないのかEUは,表流水,地下水,沿岸水などの様々な水系を汚染している多様な原因を統合的に規制して地域全体の水質を改善するために,集水域単位に全ての水系や汚染原因に対して包括的な取組を行なうために,2000年に「水枠組指令」(Directive 2000/60/EC )を施行した(環境保全型農業レポート.No.34 欧州の水系汚染対策参照)。 この法律は,水環境に深刻な悪影響を与える物質を「優先物質」として指定する決定を公布し,これらの物質については加盟国がモニタリングを行なって積極的に対策を講ずることを義務づけている。 von der Oheら(2012)は,エルベ川流域の水系から検出された,最近優先指定された河川流域特有の汚染物質500のうち,トリクロサンの水生生物に対する影響のリスクは,影響の強さと濃度からみて,最も問題な物質の上位6番目にランクされた。この結果からみれば,トリクロサンも優先物質として指定されて良いとvon der Oheらは主張している。 しかし,「水枠組指令」では,少なくとも4か国からのモニタリングデータによって,問題がヨーロッパ全体に及んでいるかその可能性があることが証明されないと,優先物質に指定されない。河川のトリクロサン濃度について詳細なモニタリングを行なった研究は,紹介したこのドイツでの例とアメリカでの例があるだけである。ヨーロッパでは調査すれば,4か国以上の国々で問題なはずだが,その裏付けデータがないために,問題が放置されているとvon der Oheらは主張している。
●アメリカにおける下水汚泥中のトリクロサン濃度と汚泥の農地施用Fuchsmanら(2010)は, アメリカの下水処理プラントで生じた汚泥中のトリクロサン濃度に関する莫大な数のデータを,EPA(環境保護庁)やペンシルベニア大学の報告書から入手した。そのトリクロサン濃度は,0.18〜34.9 mg/kg乾物と大きな幅を持っていた。トリクロサン濃度の最も低い汚泥サンプルから順に最も高いものまで,データを順番に並べて,パーセンタイルの値を直ぐに読み取れるようにした。パーセンタイルとは,例えば,50パーセントタイルは,データを小さい順に並べたときに初めから数えて全体の50%に位置する値のことである(50パーセンタイルは中央値ともいう)。下水汚泥の50パーセンタイルは,6.2 mg/kg乾物であった。 アメリカでは,下水汚泥の施用量は,窒素の表面流去を制限するために規制されており,EPAは,典型的な年間施用量は農地で5,000〜50,000 kg/haとしている。しかし,ヨーロッパやカナダでの施用量はより厳しく規制されていて,アメリカよりはかなり低い。 汚泥は,耕起圃場では深さ15〜25 cmまでの層に混和され,不耕起圃場では2 cmまでの層に混和されたとした。汚泥を混和した層におけるトリクロサンの濃度は一定の前提の下に計算し,耕起と不耕起を合わせて,50パーセンタイルは0.21 mg/kg乾土となった。
●トリクロサン濃度が生物に及ぼす影響の解析方法Fuchsmanら(2010)は,自らいろいろな濃度のトリクロサンを土壌や各種の生物に与えて,その影響を調べる実験を行なったのではない。トリクロサンの生物影響を調べた多数の既往の研究結果から,トリクロサンの土壌濃度や生物体内濃度と生物影響の関係を表すシミュレーション式にかかわるパラメータ(変数)の値を導き出したり設定したりして,トリクロサンの土壌濃度や生物体内濃度と生物影響のシミュレーション式を構築した。そして,土壌生息生物が土壌中のトリクロサンを直接吸収し,また,地上部の生物が土壌生息生物を捕食したりして,生物体内に蓄積するトリクロサン濃度をシミュレーション式によって推定した。そして,既往の文献を参考にして,陸上生物群(土壌微生物群,植物,土壌無脊椎動物,鳥類,哺乳類)について,トリクロサンの土壌中または生物体中の最大許容毒性濃度(無影響濃度(試験生物に影響が出ない最大濃度)と最小影響濃度(影響が出る最小の濃度)の中間の値で,両者の幾何平均値)を計算した。
●トリクロサンの陸上生物群に及ぼす影響シミュレーション式の設定などの面倒な途中過程を省略して,Fuchsmanらによる結論を紹介する。 トリクロサンは,その抗菌剤としての機能から予想されるように,土壌微生物群に「最悪の条件下」で一時的に悪影響を与えることが推定された。すなわち,セルロース分解能やデヒドロゲナーゼ活性などの一部の土壌微生物活性は,トリクロサン添加で増加した報告があるものの,硝化活性はトリクロサン添加で抑制されて,土壌にアンモニア性窒素が蓄積しやすいことが既往文献から判明している。そして,硝化活性を中心とした研究から,土壌微生物群に対する,土壌中のトリクロサンの最大許容毒性濃度は2 mg/kg乾土と設定された。そして,もしも,既往の分析データに示されたアメリカで最高濃度のトリクロサンを含む下水汚泥が最高量で不耕起栽培の土壌の表層0〜2 cm層に混和されたときには,そこのトリクロサン濃度は2 mg/kg乾土を超えてしまうので,この2 cm層の微生物群の一部が影響を受けると推定された。 ただし,耕起栽培で深さ15〜25 cmまでの層に汚泥を混和した場合には,土壌中のトリクロサン濃度が最大許容毒性濃度よりもはるかに低いので,そうした影響は考えにくい。また,不耕起層の場合でも,圃場条件では,土壌中のトリクロサンが16週間の半減期で分解されるので,影響は一次的にすぎないであろう。また,土壌微生物群の活性が抑制されることによる作物への影響は,根が表層2 cmよりも下に直ぐに伸びるので,ほとんどないと考えられる。 そして,汚泥中のトリクロサンによる,作物,無脊椎動物(ミミズ),鳥,哺乳類に対する悪影響は考えにくいことが示された。
●終わりに衛生上の需要から抗菌物質の使用が増えたが,それが思わぬ生態系影響を及ぼしうることがこれらの研究からもうかがえる。トリクロサンは難分解で自然界での残留が問題になった有機塩素系農薬に類似した化学構造を持っている。その使用量が今後増えるとともに,生態系影響がさらに問題になろう。
(c) Rural Culture Association All Rights Reserved.
|