環境保全型農業レポート > No.166 EUが土壌生物多様性に関する報告書の第二弾を刊行 |
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No.166 EUが土壌生物多様性に関する報告書の第二弾を刊行
●経緯2010年は国際生物多様性年であるが,多くの人の関心は地上部の動植物の多様性に集まり,地下部の土壌生物の多様性についての理解は乏しい。しかし,地上部の生物多様性は,土壌生物の働きによる土壌の様々な機能があってこそ成立している。そして,土壌生物の多様性も,地上部生物の多様性によって支えられている。これまで地上部に比べて地下部の生物の研究は遅れており,市民や政策立案者に土壌生物の多様性とその意義が地上部の生物多様性に比べて理解されていないのが現状である。 ところで,EUは環境政策を一層充実させるために,2006年9月に「土壌保護枠組指令案」を提案したが,有力加盟国の反対によってまだ成立していない(環境保全型農業レポート.No.156 EUが土壌生物の多様性に関する報告書を刊行)。 こうした状況を打破するために,EUの欧州委員会は政策立案者向けに2010年2月に土壌生物多様性に関する報告書を刊行した。そこでは,土壌にどのような生物が生息し,どのような働きをしているかを解説した。 2010年9月に,その第2弾として,欧州委員会の研究組織である「共同研究センター」が加盟国の多数の専門家の共同作業によって作成した下記報告書を刊行した。 今回の報告書も,政策立案者向けのものである。土壌生物とその機能の概要を簡単に解説しているが,重点は,土壌の生物多様性に与えられている脅威の内容とヨーロッパにおける脅威の分布図,ヨーロッパにおける土壌生物(実際には代表的な土壌動物群)の分布図,土壌生物多様性の調査方法,土壌生物多様性を保護する政策の意義とその展開方向などにおいている。以下にその一端を紹介する。
●EUにおける生物多様性保全政策の展開ヨーロッパの野生生物の保護政策は,保護地域を指定する国立公園の形で19世紀に開始された。国立公園は20世紀には植民地を含む大英帝国全体に導入され,1930年代や第二次大戦後にはヨーロッパ全体に広まった。この段階では,最も危機的状況にあって,協定やコンセンサスが得やすい種や生息地を対象にして,国およびヨーロッパレベルで保護地域が指定された。こうした保護地域の考え方に基づいた最初の国際条約が,1975年に発効した「ワシントン条約(絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約)」で,EUは同年に,保護すべき種を明確に指定した「鳥類指令」(Council Directive 79/409/EEC)を施行した。 しかし,こうした種に基づいた保全管理の仕方では,指定された種のなかでも特定のシンボル的な「旗艦」種に関心を集中させ,総合的な環境保護に必ずしもならないことが判明した。その反省から,EUは,関心の高い特定種だけの保護だけでなく,その生息地も対象にするように,野生動植物保護の政策を変えた。そして,EUは1992年に自然生息地と野生動植物を保全する「生息地指令」(Council Directive 92/43/EEC)を採択し,Natura 2000と呼ばれる,特別に保護する価値があるとされる保護区域のネットワークを構築した(2008年時点でNatura 2000の総面積はEU27か国の陸地面積の17%,約73万m2)。 さらに,EUは野生動植物保護をNatura 2000に指定された区域内に限定せず,その外側の農村地帯や海洋も含めて野生動植物を保護する「グリーン・インフラストラクチャー」に向けた動きを開始している。すなわち,集約的な土地利用,道路,都市などなどによって分断された動植物の生息地をつないで,動植物が移動できるようにして,ヨーロッパの豊かな自然遺産を回復させる総合的な土地管理が着手されている。「グリーン・インフラストラクチャー」では,特定の野生生物種だけでなく,全ての野生生物種を保護し,しかも,生物種だけでなく,生態系が発揮している様々な多面的機能の保全や増進もねらっている。こうした生態系全体とその機能の保全を目指した政策が「グリーン・インフラストラクチャー」であり,1992年に発効した国連の「生物多様性条約」の目指す方向と合致しているとしている。 というのは,「生物多様性条約」は,生態系アプローチを条約施行の一義的なフレームワークとしているからである。例えば,「生物多様性条約」の第2回締約国会議の決議事項II/8は,「生物多様性とその要素の保全および持続可能な利用は,3つのレベルの生物多様性(種内の多様性,種間の多様性,生態系の多様性)を考慮し,社会・経済的および文化的な要因を十分に考慮して,全体論的な仕方で対処しなければならないことを再確認する。しかし,生態系アプローチを本条約で取るべき行動の一義的フレームワークとしなければならない。」としている。つまり,「生物多様性条約」は,シンボリックな絶滅危惧種や役に立つ生物種だけを対象にしているのではなく,生態系を構成している全ての生物種と生態系機能の保全と持続可能な利用を対象にしているのである。
●生物多様性条約における土壌生物多様性の位置づけ「生物多様性条約」を実行する上で,食料生産に果たしている生物多様性の役割が大きいことから,2006年の第8回締約国会議において,農業における生物多様性についての決議がなされた(COP 8 Decision VIII/23)。一つは,「食料および栄養のための生物多様性に関する横断的イニシアティブ(先導的取組)」であり,もう一つは,食料生産や陸地のあらゆる生態系を支えている土壌生物多様性についての「土壌生物多様性の保全と持続可能な利用のための国際イニシアティブ(土壌生物多様性イニシアティブ)」である。 土壌生物多様性イニシアティブは,FAOの調整と技術支援をえて,伝統的および慣行的農業生産システムにおける多様な土壌管理方法や農業生産における土壌生物多様性の役割を理解し,土壌生物多様性の保全と活用を組み込んだ土壌の管理方法を開発し,その知識を向上させて普及させることを目標にしている。 しかし,こうしたことを実際に研究し,新しい知見を集積させる勢力は先進国でも他分野に比べて乏しく,途上国ではなお不足している。このため,農業者レベルまで土壌生物多様性についての知識を普及させるには,ほど遠い状況にあると考えられる。土壌生物多様性イニシアティブが実際に役立っているのは,生物多様性条約の他の問題を扱っている委員会に,土壌生物多様性の重要性を注意喚起していることである。まだ土壌生物多様性についての認識が低いために,EUがこうした土壌生物多様性に関する報告書をインプットして啓蒙している段階だといえる。
●土壌生物多様性に脅威を与えている要因土壌生物多様性のデータ蓄積は地上部生物に比べて乏しい上に,土壌生物多様性に影響を与える要因とその強さも明確に把握されているわけではない。しかも,土壌生物多様性に与える要因の強度は,土壌生物と地上部生物とで必ずしも同一ではない。例えば,大きな森林が都市や道路によって分断されるといった生息地分断の程度が高まると,野生動物の移動が妨げられ,生物多様性が減少する。理論的には生息地分断が土壌生物多様性にも大きなマイナスインパクトを与えることはありうるが,実際には土壌生物多様性に大きな影響を与えることは通常考えにくい。というのは,研究では,数平方センチのオーダーでの生息地分断によって土壌生物多様性に影響が出ることが認められているが,現実世界で起きている生息地分断のスケールでは影響が出ることは考えにくいからである。こうした側面もあるため,地上部生物での知見をそのまま土壌生物に適用することはできない。 そこで,欧州委員会の「共同研究センター」は土壌生物多様性の専門家を招集し,アンケートの形で,事前にリストアップしておいた土壌生物多様性に影響する要因の強度を1から10まで(”1”は事実上何らの脅威がない,”10”は非常に深刻な脅威)の重み付けすることを依頼した。各要因について20名の専門家に回答を依頼したので,各脅威の合計最高スコアは200となる。各脅威について専門家のつけた重みを合計し,その最高スコアの200に対するパーセント値を脅威の潜在的重みとした。これによって個人のバックグランドや専門領域によって導入される主観的なバイアスを除いた。 その結果,土壌生物多様性に対する脅威の潜在的重みは次の順位となった。(1)人間による集約的開発,(2)土壌有機物の減少,(3)生息地の撹乱,(4)土壌の封入(コンクリートやアスファルトによる被覆),(5)土壌汚染,(7)土地利用変化(以上が60〜65),(8)土壌の圧密,(9)土壌侵食(以上が50台),(10)生息地の分断,(11)気候変動(以上が40台),(12)外来種の侵入,(13)遺伝子組換え体による遺伝子汚染(以上が30台)(Jeffery et al. (2010) のFig. 5.2) これらの潜在的重みのうち,「共同研究センター」が1 km×1 km のグリッド(格子)ごとのデータとして既にデータベースを構築している関連要因(土地利用変化/生息地分断,農業の集約度(窒素負荷レベル),外来種の侵入(動植物),土壌の圧密リスク,土壌侵食リスク(水食リスク),土壌有機物の減耗リスク)の強度を5段階にランク分けし,各グリッドの強度データに,関連する脅威の潜在的重みを乗じた。そして,その合計値を7段階に分けて,1 km×1 km のグリッドの「土壌生物多様性に対する潜在的脅威分布図」を作成した(Jeffery et al. (2010) のMap of Soil Biodiversity Potential Threats)。 潜在的脅威の値が高いのは,イギリスと中部ヨーロッパ(フランス北部,ベルギー,オランダ,デンマーク,ドイツ北部)で,脅威を大きくしている主要要因は,農業の高い集約度,侵入種の多さ,土壌有機物減耗の高いリスクであった。ただし,こうした結果は将来の可能性を示しているのであって,現在の土壌生物多様性のレベルを示しているわけではない。
●侵入外来種の土壌生物多様性に対する脅威の例侵入外来種によって,在来の多くの地上部生物や水生生物が絶滅したり,絶滅危惧に追いやられたりしている。それに比べて侵入外来種の土壌生物多様性に対する脅威は小さいとされていて,その確認された具体的事例は乏しい。本報告書に記載されているヨーロッパで確認されている事例を抜粋する。 ・北アメリカでは,外来植物のアリアリア (Alliaria petiolata) (ニンニクに似た臭いのするヨーロッパ産のアブラナ科雑草)の侵入によって,堅木広葉樹林のアーバスキュラー菌根菌(VA菌根菌)が減少。 ・イギリスの一部地域では,ニュージーランドからの扁形動物(Arthurdendyus triangulatus)(成虫は淡青色と淡黄色からなり,約17 cmに達し,ミミズを補食する)によって,土着ミミズの多様性が減少。 ・ハワイには窒素固定のできる土着植物がいなかったが,窒素固定能を持ったMyrica faya(ヤマモモの一種)が侵入し,土壌窒素量が増大して,植物の種類と量が大幅に変化。 ・日本から導入したイタドリ(Polygonum cuspidatum)がヨーロッパで繁殖し,カタツムリやダンゴムシの数と多様性を減らし,これらの捕食者を増加。
●土壌生物多様性に対する認識向上EUや加盟国は,土壌の多様な機能を維持するために分野ごとに多数の法律を定めて,様々な政策を実施してはいるが,一貫した形で土壌を保護するようにはなっていない。そうした背景には,市民や政策立案者が土壌生物の活動や分などについて十分な知識と認識を持つに至っていないことがある。そして,既往の土壌保護に関連した法律には,土壌生物多様性のロスの防止が明確には含まれていない。それゆえ,子供も含めて市民の土壌生物多様性についての知識を研究や教育によって向上させることが,また,社会が土壌生物多様性やその重要性を全体として理解し評価できるようにすることが大切であり,今後はそうした活動も強化する。
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