●リービッヒに関する熊沢喜久雄の論文
植物の無機栄養説と最小律の発見者はリービッヒでなかったことの論拠の論文を,「その1」と「その2」で紹介した。筆者の不明ゆえに見落としていた,もう1つの大切な論文を紹介する。それは肥料および植物栄養学の熊沢喜久雄東京大学名誉教授の下記論文である。
熊澤喜久雄(2003)リービヒと日本の農学:リービヒ生誕200年に際して.肥料科学.25: 1-60
この論文は,2003年がリービッヒの生誕200年に当たることから,日本土壌肥料学会が主催した「土と肥料の講演会」における熊沢の講演をベースに書かれたものである。
この冒頭部分で熊沢は,次のようにリービッヒの業績を総括している。
『多くの化学史,農学史に記述されているように,リービヒは化学,とくに有機化学の基礎的理論の構成者として若くして著名であり,化学の目で農業や生理学,植物栄養,動物栄養の分野を達観し,新理論を提唱した。また,彼の理論の実際的応用面においても多彩な活動をした。とくに農業の面においては,産業革命後のイギリス農業を先頭として発展をしてきたヨーロッパ農業の改革を目指して,既成の農学の理論と農業技術の在り方を鋭く批判し,農学における教育体系や内容にまで容喙(ようかい:くちばしを入れること)した。必ずしも農業の実際を捉えてはいなかったリービヒの,いわば演繹的な説明に基づく農業批判は,農業の実際や,圃場試験に基づく英国やドイツの農学研究者との激しい意見衝突を引き起こした。それらの論争を通じて農学・農業技術も急速な進展をした。』
そして,次も指摘している。
『近年とくに1945年以来,ドイツの農業関係研究者の間において,スプレンゲルの業績の正統な評価とリービヒと農業との関係についての研究が進んでいる。詳細な調査研究により,無機栄養説と最小律の発見はともに,農学者スプレンゲルの功績であるとすることが正しいと主張され始めた。リービヒは自己の樹立した化学の理論体系より,この両者の認識に達し,彼の知名度を背景に,自説として強力に普及啓蒙したのである。』
『スプレンゲルは1837年刊行の著書においても植物の無機栄養説と最小律をはっきり記載している。そのことに触れなかったリービヒの1840年の著書に対するスプレンゲルの抗議は全く無視されてしまった。』
『リービヒは農業の実際上の指導においては多くの混乱をもたらしたが,最終的に合理的な農学体系を構築するのには大きな貢献をした。ドイツ農業試験場協会の評価においては,リービヒは農学に関しては,新知識の発見は何らないが,既知の知識を集大成し,啓蒙,普及に大きな貢献をした学者と評されている。』
熊沢は欧米におけるリービッヒの評価に続いて,明治期の日本における農芸化学の移植に果たした外人教師と,それを介してリービッヒの業績の伝授や日本での肥料試験の開始などの話題を,実に様々な資料に基づいて丁寧に紹介している。
このように環境保全型農業レポート「No.270 植物の無機栄養説と最小律の発見者はリービッヒではなかった」の「その1」,「その2」および今回の「その3」に紹介したように,リービッヒの無機栄養説と最小律について行なった行為は,「論文盗用」であり,今日なら大学教授罷免に相当する行為である。その反面,リービッヒがこれらの概念の確立と普及に果たした役割は無視できない。それゆえ,今後は日本でも無機栄養説と最小律は,シュプレンゲル・リービッヒの無機栄養説と最小律と表記すべきであろうと再度提言したい。
●テーアに関する熊沢喜久雄の論文
では,リービッヒが否定したテーアの腐植説とはどのようなものであったのだろうか。熊沢の下記の論文を中心に改めて紹介する。
熊沢喜久雄 (2008) テーアの「合理的農業の原理」における土壌・肥料.肥料科学.30: 89-138.
今日では,植物は無機養分と水と大気中の二酸化炭素およびマメ科植物は大気中の窒素ガスから必要な養分を確保でき,土壌中の腐植から養分をえなくても生育できることは周知の事実である。それゆえ,土壌中の腐植から大部分の養分をえているとする腐植説を提唱したテーアの農学は幼稚と思われがちである。しかし,テーア(Albrecht Daniel Thaer, 1752-1828)こそが,『学問としての「農学」の創始者』とされているのである。
A.テーアの時代背景
「その2」に三沢の論文から要約した記述を再録する。すなわち,18世紀末までドイツの大部分では,共同耕作制が農業生産の一般的様式であった。それは耕地における三圃式農法と,放牧地・採草地の共同利用権および休閑地・刈跡地の共同放牧権とを耕作の物的基礎とし,作物の種類・作付順序・作付方法および収穫時期を部落共同体の厳重な統制下に置いていた。これは封建的領有経済の下で,村落の完全自給自足を図る体制であった。こうした体制下で共同放牧権,共同採草権および耕作強制は,地力を自給自足して均衡を図るための必要条件であって,地力問題に対して個々の農業者が介入する余地はなかった。
これは正確には,1867年にドイツが連邦国として統一される前に,最も強力な国であったプロイセン王国でのことであった。プロイセンでは封建制度の下に地主貴族(ユンカー)の大規模農場で農奴制の下で農業生産を行なっていた。プロイセンは農奴制で生産された安価な農産物を西欧に輸出して王国は繁栄していた。しかし,1807年にナポレオンに敗北したのを契機に1807年に農業改革を行なって,農奴制を廃止し,人格的自由を得た農業労働者に切り替え,1811年に封建地代と農民地についての封建的束縛も廃止した。しかし,いち早くアメリカ大陸へ進出していた西欧諸国は,アメリカでより大規模な農業によって生産された安価な農産物を輸入して,工業化を進めていった。その影響を受けてプロイセンの農業は厳しい状況に置かれていた。
このため,プロイセンでは市場経済に対応して,作物を自由に選択しつつ,地力維持を実現できる新しい技術や農法が求められていた。
B.テーアの合理的農業
テーアは当時行なわれていた三圃式(圃場を3等分して,それぞれの区画を休閑−冬穀作(ライムギなど)−夏穀作(オオムギなど)の順序で輪作する。)は収量が低くかったことから,収量を如何に高めるか,その高めた収量を如何に持続させるかの理論を構築した。
簡単にいうと,テーアはいろいろな作物や輪作体系における,土壌の仮想的な養分量ともいえる地力を数値化して,収量の予測と,収量向上方策とその持続性方策を指導した。その概要を熊沢は,下記を基にして解説している。
アルブレヒト・テーア著合理的農業の原理(1809‐21).相川哲夫訳.上巻p.513.農文協(2007)
出発点として,「自然地力」を設定する。自然地力とは収穫を繰り返して,地力が減耗して,これ以下に下がると農業経営上の収支が償われなくなる水準である。この残留地力を自然地力と称し,その相対的な仮定量として40度を与えている。
そして,休閑時には堆厩肥を施用して作物を栽培せず,生えた雑草を土壌に鋤き込むだけにする。堆厩肥の確保が難しかったため,3年に1回の休閑時に毎回堆厩肥を施用せず,当時は2巡目の6年目に堆厩肥を施用した休閑を行なっていたが,9年に1回しか堆厩肥を施用した休閑をしていないケースもあった。このときの標準的な量の堆厩肥施用に対しては10度の地力獲得を,堆厩肥を施用しない休閑自体にも10度の地力獲得を割り当てた。したがって,標準量の堆厩肥を施用して休閑した後に,冬穀作を開始する時点では,土壌は,自然地力の40度,堆厩肥の10度,休閑の10度,合計60度の地力を獲得しているとした。
一方,作物が収穫物によって土壌から収奪する地力減耗度は,1シェッフェル(容積で表した穀物量の単位で,地方によってその量は異なり,プロイセンでは55リットル,バイエルンでは222リットル強)の収穫当たり,ライムギ10度,コムギ13度,オオムギ7度,エンバク5度を与えている。
これらの数値を用いて計算すると,休閑後に冬穀作にライムギ,夏穀作にオオムギを栽培し,それぞれ1シェッフェルの収穫を上げた場合,休閑後に獲得していた60度の地力から,ライムギ収穫で10度の地力が減耗して残留地力は50度となり,次のオオムギ収穫で7度の地力が減耗して,残留地力は43度となる。
こうした計算を各種農法について行ない,残留地力を高く維持するように堆厩肥や休閑を行なって高い収量を持続できるように指導した。例えば,三圃式を持続するためには,耕地とは別に牛を夏期は放牧地で冬期は畜舎で飼養し,冬期に収集した牛のふん尿を堆肥化して耕地に休閑時に施用することが必要だが,必要な面積の放牧地が確保されていないことが指摘された。
この点について,熊沢は次の記述を行なっている。『地力増進あるいは減耗度の算出にあたり,その基礎的数字を農業経営の実態調査と一部化学分析結果にもとづき仮り置きをしているのであるが,出て来た結果は各地の農業経営の実態を良く説明するものであり,逆に前置きした数値の妥当性も示されたということになり,次の論理展開が進められるのである。』
このようにテーアは,残留地力の量を計算して,次作の収量予測や収量向上のための養分補給の指導を行なったことから,『学問としての「農学」の創始者』とされている。
こうした量論的な収支バランスによって作物の収量やその持続的管理方法を指導するやり方での,いろいろなケースで収量と予測値とがどの程度の正確さであったのであろうか。気候,土壌のタイプ,排水性などの違いによって地力度が異なり,予測が実態に合わないケースも少なくなかったであろう。しかし,こうした収支バランスを計算するやり方は,今日にも通ずる科学的なやり方である。
C.腐植説
こうした残留地力の量の計算を通して,テーアは腐植(フムス)説を提唱した。この点について熊沢は次の記述を行なっている。
『地力の増減は休閑や施肥,作物種や目標収量など含む農法と関係があるが,もっとも直接的な影響を与えるのは堆厩肥の施用であった。作物栽培により土壌から失われたものを回復するのは本質的に堆厩肥に含まれているものであり,それは堆厩肥より生成する腐植であるということに論理的に到着する。
ここでは地力は土壌中の作物に吸収可能な養分,腐植の量と関係があるか,腐植そのものである。地力の回復は失われた作物養分,腐植の回復によりなされる。
農業が持続的に経営されるためには,失われた養分の回復,すなわち「地力均衡」が基本になる。この養分は腐植であるという考えは,そのまま植物栄養における「腐植説」の提唱ともなる。
このように,実際農業の経験から帰納的に「植物栄養の腐植説」が出て来たのであって,植物生理学的な研究から実験科学的に導きだされたものではない。』
ただし,今日,土壌の腐植は,土壌に存在する生きた根や土壌動物さらには土壌微生物,未分解の動植物や微生物の遺体,微生物に分解された分解程度の様々な有機物など,全ての有機物を包含している。そして,微生物にかなりの程度分解されて化学的変更を加えられつつ,なお残っている分解残渣の有機物が,微生物の分泌物質などとの化学的反応をへて生じた複雑な構造の難分解性高分子は「腐植物質」と呼ばれて,腐植とは区別されているので,注意して頂きたい。今日呼ばれている腐植とテーアの腐植は異なる。
テーアの腐植について熊沢は次のように記している。『地力度にもっとも影響を与えるのは堆厩肥の施用量であり,それは作物の栄養分を与えるからであるとし,堆厩肥から出来る腐植質,それは土壌中の有機物の一種であるが,可溶化して植物に吸収されうる栄養物すなわち「腐植」になると推定した。ここで導入された「腐植」は概念的なもので実体が明らかになり定量されたものではない。』そして,テーアは,『土壌の中にある水以外の唯一の植物養分』が腐植であると確信した。
D.テーアの施肥論
テーアは腐植説をとなえながらも,腐植(フムス)の前駆体としての堆厩肥以外にも,当時,輸入していたグアノやチリ硝石,動物の角や蹄,魚粉,泥炭,石灰や木灰なども肥料として使用しており,その効果を広く認識していた。では,これらの肥料と腐植はどのように関係するのか。熊沢は,アルブレヒト・テーア著,相川哲夫訳「合理的農業の原理.中巻」p.629.農文協の「第4編 施肥論,耕作・土地改良論」に基づいて,次の解説を行なっている。
『堆厩肥の作用は二通りあり,「一つはそれが作物のために耕地に新しい養分質を供給することであり,二つにはそれが土壌の中にすでに含まれている素材を化学的な相互作用によって分解し,改めて作物がその素材を吸収できるように可給態化することである」。細かく言えば動物性のものは植物性のものに比べて「窒素とか,燐,硫黄といった物質を供給するだけでなく,不溶性のフムスの分解を促進し,作物をいっそう活性化に向けて刺激する」。』また,『植物性肥料について「植物性だけの肥料は動物性の肥料にくらべて肥効と速効性では断然劣るが,土壌の中では非常に持続性がある。それは遅効性のフムスをつくり出しているためであるように思える」。』
『石灰については,その化学的効果をフムスとの関連において,「フムス[腐植]に対して分解促進剤として働き,それを溶かして作物への移行をたやすくできるような可給態化へ作動させていく」のを主要効果としている』。
『土壌中に存在する塩類の効果について,テーアは概して否定的であり,「土壌の塩類や堆厩肥の塩類については,時たま見かける土壌中の油についてと同じく論じることはやめたほうがよいし,はっきりした概念を混乱させるばかりであろう」とまで言っている。ただし硝酸塩については効果はあるのであろうが,実験的データが存在しないので指摘だけにとどめると言っている。』
『灰については,肥料的な効果のあることは自明であった。しかしその効果について「カリ塩は分解促進剤として効果の大きいことを認めないわけにはいかない」と述べ,あくまで腐植栄養に拘っている。』
E.テーアとシュプレンゲル
このように腐植説を提唱したテーアは,無機塩(ミネラル)の有効性を認めつつも,ミネラルと腐植の関係を十分整理つけられないために,思考を停止した感じである。この後をテーアの弟子のシュプレンゲルが,土壌から抽出した腐植画分には多様なミネラルが存在し,植物体からもミネラルが検出できることから,植物はミネラルで生長するとの無機栄養説を提唱した(「その1」)。恐らくシュプレンゲルは,テーアが構築した地力度の実体を構成している養分の本体を突き詰めるために,腐植画分を分析して無機栄養に到達したのであろう。
この点に関連して,農業経済学者の柏祐賢京都大学名誉教授の次の見解を熊沢が紹介している。『実は,植物栄養に関して無機質の供給に注目していたのは,ほかならぬテーヤ自身であった。テーヤは,すでに石灰を施用したり,泥灰土や灰を施用することに重要な肥料的意義を見出していたのである。したがってテーヤの弟子から,無機質肥料に注目する学説が出てきても,少しもおかしくはない。むしろ無機質肥料論は,テーヤの学問体系の中にあるもの,その意味では,テーヤ自身に根底を置くものであったとしなくてはならぬ。シュプレンゲルから,やがてリービッヒヘと進むが,その源は,すでにテーヤの中に用意されていたのである。』
●根深いリービッヒに対する嫌悪
鳥取大学農学部の農業経済学の教授である佐藤俊夫は,ドイツのイェナ大学の農業経済学教授であったシュルツェ(Friedrich Gottlob Schulze, 1795-1860)が1846年に刊行した著書,”Thaer oder Liebig ? – Versuch einer wissenschaftlichen Priifung der Ackerbautheorie des Herren Freiherrn von Liebig, besonders dessen Mineraldiinger betreffend.”を紹介した下記論文を公表している。
佐藤俊夫 (1987) 農耕理論の構築におけるテーアとリービッヒ.鳥取大学農学部研究報告.40: 65-73.
シュルツェは,農業のあり方として,実例を踏まえた豊富な経験に裏付けられたテーアの農耕理論を,農業の実線経験もないリービッヒが化学から演繹した理論で論駁したことに憤りを感じていた。この点について,佐藤は次のように記している。
『言いかえると,飼料作物→家畜→厩肥→作物という経営内部の物質循環を合理的農業の基礎として重視するテーアに対して,リービッヒによると,農業者は購入肥料の施用によって輪作や厩肥の束縛から解放され,その作付けを市場の要求に完全に適合させ,全耕地面積を直接商品生産にあてることができるようになる。むしろ,購入肥料への一般的依存によって,輪作や厩肥から解放されることが合理的農業であるとリービッヒは強調する。』そして,『シュルツェは,リービッヒの方法にしたがって農業の全体を習得しようとする人は,その後,有能な農業者がテーアの例にしたがって進む確実な経験科学の道からまったく遠ざかり,思弁と幻想の世界へ迷い込むとするのである。すなわち,農耕理論の構築にあたり,リービッヒが採用した方法を「誤りの方法」と規定し,その方法にしたがう人は「確実な経験科学の道」ではなく,「思弁と幻想の世界」へと迷い込むことになるとシュルツェは批判する。』
シュルツェはリービッヒの考えが誤りであれば,その農耕理論も間違っているはずだとして,その誤りを懸命に探した。そして,到達したのが,『リービッヒは,肥料理論構築の基礎としての「植物の炭素は大気に由来する」という仮説は正当であることを証明しようとした。』
シュルツェは植物大気から炭素を獲得しているとはいえ,わずか数フィートの導管で確保できる炭素は必要量の一部だけであって,大部分を根を介してフムスから獲得していると信じて疑っていなかったのである。このため,『シュプレンゲルは,植物がすべての炭素需要をフムス酸の形態で汲み取るのではなく,ただ1 部分のみを汲み取るにすぎない,と主張した。』ことも,シュルツェは誤りとした。
リービッヒの正しいこともあえて誤っているとしたシュルツェの理由は,無機栄養説からリービッヒが演繹した農業のあり方に対する提言が,農業の基本原則に合っていないためであって,本来は無機栄養説まで否定しなくてもよかったはずである。
では,リービッヒの演繹した誤った農業のあり方は,次の佐藤の文章からうかがうことができる。すなわち,『厩肥に関する数千年にわたる経験によって農耕の原理を確認した農業的経験的定理をリービッヒは抹殺した。作物に鉱物性肥料あるいは灰肥料を施用すれば十分であるから,それらに炭素含有肥料を施肥することはばかげている,という命題が演繹される仮説は支持されない。植物が必要とするきわめて少量の鉱物性物体のうち,その大部分が自然によって水中で,また,大気中で植物に供給されることをリ一ビッヒは無視している。リービッヒはフムスや厩肥の物理性をほとんどあるいはまったく評価しない。』
佐藤の論文から,シュルツェがリービッヒの提言に嫌悪感を抱いていたことは良くわかった。ところで,シュルツェの思考の誤っている部分やリービッヒの正しい部分について,佐藤は,なぜ何らの解説も論評もせずに,あたかもシュルツェが全面的に正しく,リービッヒが全面的に誤っていたかのような記述をしたのであろうか。佐藤の見識に疑念を抱かざるをえない。
また,佐藤はリービッヒが厩肥を不要としたかのような記述を行なっているが,リービッヒはそんなことを決して記述してはいない。厩肥のような有機物が主要な養分源になってはおらず,植物は無機物を養分源にしているが,厩肥,グアノ,魚粉などの有機物な養分源として大切であることをリービッヒは強調し,彼の著書で次の記述を行なっている。
リービッヒ著 (1876),吉田武彦訳(1986).化学の農業及び生理学への応用.第9版.北海道農業試験場研究資料.1-152.
『農民がきゅう肥を大切にせず,価値を損ねたり売ったりするか,またはきゅう肥漏汁を畑ではなく,村の溝に流したりするなら,彼の経営は「合理的」であることを停止する. 畑の収量はいつの日か,あるいは特定の作物種について低下するにちがいない。』
『土地耕作者が,生産物を供給した都市やどこかから,畑の失ったものを肥料として回収するよう努力し,畑の生産性を回復するだけのものをその都度戻してやるならば,略奪経営が合理的経営に帰るのはいうまでもない。』
この記述の視点から,日本が人糞尿を都市から農村に環流させて農地に施用していることをリービッヒがほめちぎっていることを,「その2」に紹介した。
シュルツェも佐藤もリービッヒの主張を正しく理解した上で,誤っている点を指摘すべきであろう。