●三沢嶽郎論文
環境保全型農業レポート「No.270 植物の無機栄養説と最小律の発見者はリービッヒではなかった」の内容に関して,読者から,下記の三沢嶽郎論文の存在をご指摘頂いた。
当該論文は,リービッヒに関係する多数のドイツ語の文献を丁寧に読んで見事に整理してある。そして,No.270に記した,リービッヒの,シュプレンゲルの研究を無視した科学倫理に欠けた強引な態度を,いち早く指摘していた。また,吉田武彦氏がリービッヒの「化学の農業及び生理学への応用」の翻訳を解説した部分で,「無機栄養説の先駆者とみなされたSPRENGEL」と記しているのは,何に基づいたのかとNo.270に記したが,それが当該論文であろうと指摘頂いた。
三沢嶽郎 (1951) リービッヒの思想とその農業経営史上における意義.農業技術研究所報告.H經營土地利用.2: 1-26.
筆者は,三沢嶽郎氏を存じ上げないが,農林省の旧農業技術研究所や農業総合研究所などで,国内外の農業経営・経済を研究された方である。この論文で,リービッヒの無機栄養説やそれから演繹された学説がどのような内容で,当時のヨーロッパ農業の経営に如何なる影響を与えたかなどを,多数の文献を引用しつつ論じている。この論文は,東京’大学農学部農業経済学研究において,東畑精一,磯部秀俊両先生の指導のもとにまとめたことが論文の後記に記されている。
この論文から,No.270での論議に関連する三沢の記述を再録する。
●シュプレンゲルはリービッヒの直接の先駆者
『更に,ドイツの農芸化学者カール・シュプレンゲルは,彼の著書「農業者・林業者及び財政家のための化学」Chemie für Landwirte, Forstmänner und Kameralisten (1831)及び「肥料学」Die Lehre von Dünger(1839)に於て,鉱物質の植物栄養に対する意義を,より一層明瞭に認めている。彼は,鉱物質が植物栄養のために必要不可欠なることを断定的に述べたのみならず,如何なる鉱物質が植物栄養に必要であるかを明確に述べた最初の人であつた。シュプレンゲルは,植物の生活に本質的に必要な成分として,4の有機物構成元素(炭素・酸素・水素・窒素)と共に,11の鉱物質をあげた。即ち,それは,硫黄・憐・塩素・加里・ナトロン(ナトリウム) ・石灰・タルシウム(マグネシウム)・アルミニウム・シリシウム(珪素)・鉄・マンガンである。そして,彼は,土壌分析によって鉱物質栄養分に関する植物の要求.を確かめることにより,合理的施肥の基礎が確立され得る,との見解に到達した。鉱物質の植物栄養に於る作用を,斯くも明確に認識し,主張した点に於て,シュプレンゲルは,リービッヒの直接の先駆者と考えられる。』
なお,三沢が引用したのはシュプレンゲルが著した教科書であって,無機栄養説に関する原著論文は,No.270に記したように,1826年と1828年に刊行されている。
また,三沢が記した引用箇所の出典は,Frit Moszeik (1896) Der Einfluss Liebig’s auf die landwirtschaftliche Theorie und Praxis. 108p. (Jena Universität) のようだが,筆者は最終確認できていない。
●リービッヒは先駆者の研究を正しく引用しなかった
『リービッヒの思想には,さきに述べた如く,既に多くの先駆者があった。リービッヒ自らは,彼の学説に対する先駆的な想源を明記していないのみならず,却てドゥ・ソーシュールやシュプレンゲルの如き彼に先んずる鉱物質説の主張者が恰かも有機質説の代表者であるかの如き叙述を行っている。客観的に見て,リービッヒのこの主張は勿論正しくない。リービッヒは,彼の提出した鉱物質説の諸命題は,「ただに,すべての以前の見解と全く関連がないのみならず,それ等と直接に矛盾するものであった」と自己の思想の独創性を主張しているが,それにも拘らず,事実は多くの先輩同僚の実験及び思想群の上に彼の思想の全構築物がつくり上げられているのである。』
●リービッヒは他人の実験結果をもとに試行錯誤して論理を構築した
『リービッヒが,はじめて「農業及び生理学に応用されたる有機化学」を提げて農学に登場した頃は,農芸化学の水準が未だ幼稚な段階にあり,植物栄養に関する諸現象に就ても不分明な点が多かったので,彼の最初の主張は多分に仮説的なることを免れなかった。然し,この書の出現によって機縁を与えられた実験と観察,それに基くところの批判と論駁によって,彼のはじめの思想の多くの点が,修正され,または実証的に明かにされていった。殊に,この主著の第6版(1846) が出てから第7版(1862)が全く新たな構成と体裁とを以て刊行されるまでの16年間は,リービッヒの思想にとって,完成化への苦闘の期間であつた。この期聞に出された諸論著,例えば「農業に於る理論と実際について」の如きは,この苦しい戦いの生々しい記録として,心して読む者の胸に迫るものがある。
従って,彼の学説は,はじめから完成された形で世にあらわれたものではなく,批判と論争に従って,漸次に内容の変化を蒙っていったのであって,同一著書の同一版の中に於てさえ,屡々相矛盾する主張がなされ,或は,前に現われた表現に対して後に別の解釈が施されていることが稀ではない。ことのことは,単に,彼の思想の首尾不徹底として批難さるべきものではなくて,むしろ,学問の急速なる発展の波に乗って,完成化への過程を歩んだ彼の思想の一特と考えられねばならない。』
『更に,リービッヒの思想の他の特徴と認めらるべき点は,その諸命題の多くが,彼自らの実験による検証を経たものではないということである。彼が,「私の見解の証明法は,何等の実験を含んでいない。それは植物の空気及び動物に対する自然法則的関係の観察に基いている」と,自ら認める如く,彼の思想は,決して,実験的手法に基いて,帰納的に導出されたものではなくて,同時代の学者達の多くの観察や実験の結果を達観することによって定立された仮説的性質を有するものであった。』
●無機栄養説が農業経営にもたらした影響
三沢論文の主要点はむしろ,リービッヒの主張が当時のヨーロッパの農場経営戦略に及ぼした意義を明らかにする点にあった。その一端を三沢論文から紹介する。
18世紀末までドイツの大部分では,共同耕作制が農業生産の一般的様式であった。それは耕地における三圃式農法と,放牧地・採草地の共同利用権および休閑地・刈跡地の共同放牧権とを耕作の物的基礎とし,作物の種類・作付順序・作付方法および収穫時期を部落共同体の厳重な統制下に置いていた。これは封建的領有経済の下で,村落の完全自給自足を図る体制であった。こうした体制下で共同放牧権,共同採草権および耕作強制は,地力を自給自足して均衡を図るための必要条件であって,地力問題に対して個々の農業者が介入する余地はなかった。
しかし,封建的経済が破れて市場経済に移行し始めるようになると,厳格な耕作強制は,市場需要に応じた作物選択の自由や改良農法導入に対する障害となった。こうした背景のもとに,作物を自由に選択しつつ,地力維持を実現できる新しい技術や農法が求められた。
19世紀のドイツ農学の重要な課題は,テーアに端を発する地力均衡論であった。腐植説は,地力(土地の植物扶養能力)の担い手物質をフームス(腐植)と呼称したが,テーアは農業経営における生産過程で生ずる有機物質,特に厩肥を地力の担い手物質とした。そして,作物栽培による地力の消耗と肥料施用による補償との間に均衡関係をもたらすことを,農業経営の基本原則とすべきとした。
テーアは,耕作共同体での三圃式が必要とした共同採草地の代りに,耕地に飼料作物栽培を導人するとともに,共同放牧の代わりに舎飼を導入することによって,飼料生産の能率化と厩肥による肥料集約度の増進を図って,放牧地や採草地に依存しないで,耕地での地力の自給を全うしようとした。しかし,收穫されて市場へ搬出される農産物によって奪い去られた植物栄養分を,経営内における厩肥生産と作物輪作のみによって回復することは到底不可能であった。
リービッヒが農学の領域に登場したのは,このような時代背景と知識段階のときであった。彼は,シュプレンゲルをはじめ多くの先人の研究を土台として,無機栄養説をまとめて,有機質説に基礎を置くテーア以来の旧い地力均衡論が,もはや明らかに担い得なくなった時代的課題に対して,新しい解決策を提示した。すなわち,リービッヒは,作物養分の担い手は有機物質ではなく,無機物であると断定的に述べ,農業再生産の必要條件は厩肥による地力の経営内での自給でなく,収穫によって奪い去られた養分の無機肥料による完全な補償であると主張した。
これにともなって,無機肥料によって厩肥が不要なこと,経営内での養分確保のための休閑地,放牧地,採草地が不要なこと,養分確保を図る観点から必要とされた作物輪作が不要なことを,リービッヒは主張し,旧来の農法を攻撃したのである。
●リービッヒは日本農業を絶賛
リ一ビッヒは,農業生産を持続的なものにするためには,收穫によって奪い去られた養分を完全に補償しなければならないと主張した。リービッヒはこのことを実践している国として,日本を絶賛している。リービッヒの「化学の農業及び生理学への応用」(Liebig, J. 1840. Die organische Chemie in ihrer Anwendung auf Agricultur und Physiologie (Organic chemistry in its applications to agriculture and physiology). Friedrich Vieweg und Sohn Publ. Co., Braunschweig, Germany.:吉田武彦訳. 1986. 北海道農業試験場研究資料.1-152. )には,付録として,当時のブロシャ王国東アジア調査団の一員として来日したマロンが書いて1862年に刊行した,日本農業の調査報告書(吉田の翻訳では主要部分)を収録している。吉田は,同報告書を読んだリービッヒの感想を下記の資料にまとめている。
吉田武彦 (1976) リービヒのみた日本農業.化学と生物.14(11): 732-736.
マロンは,家畜もなく,そのための飼料作物の生産もなく,輪作も行なわないのに,持続的な農業生産を行なっている日本における「唯一の肥料製造者は人間」で,人糞尿を還元していることに感心している。市場経済が発達して都市に販売する農産物量が多くなるほど,農地の養分が都市に集積して,農地は養分不足に陥ってしまう。日本が都市から人糞尿を農村に還元している点を,マロンは称賛したのである。「まだ高度の文化から遙かに隔たって見える国,牧場も飼料作も,たった一群の家畜(肉畜も役畜)もなく,最小限のグアノ,骨粉,硝石または油かすの輸入もない国ほど何ものにもまして,おどろくべきものはないであろう。それが日本である。」と記している。
日本農業が家畜なしで何とか続いてきたのは,マロンやリービッヒが注目した人糞尿の都市部からの還元だけではない。養分を消耗するばかりの畑とは異なり,養分の集積する水田では天然肥沃度が高いことが最も大きな理由であった。それだけでなく,林の落ち葉,入り会い草地の刈草などを収集して植物堆肥を苦労して製造し投入していたことも理由であった。この作業の結果,林や草地の養分が収奪されて畑や水田に搬入されて,養分の乏しい松林,ススキやシバの草原が人間の手によって作られた。かつての日本では,農業生産力は低く,冷害や干ばつが生ずれば,すぐに飢饉が生じた。その上,人糞尿の運搬,貯蔵や還元と家庭雑排水の排水路のドブなどによって,かつての日本は悪臭に満ちていた。それゆえに,人糞尿が注目されたであろう。しかし,かつての日本では,悪臭だけでなく,し,日本人には広く寄生虫など人畜共通病害虫が蔓延しており,不衛生であった。リービッヒの養分循環の点だけでの狭い視野での評価を,鵜呑みにするわけにはゆかない。
●おわりに
リービッヒの強引なやり方で無機栄養説が普及して化学肥料が使用され,世界の食料生産が飛躍的に向上した。しかし,だからといって,リービッヒの農業のあり方に関する主張が全て正しかったとはいえない。化学肥料で養分を補給するなら,家畜ふん尿などの有機物補給は不要だというわけにはいかない。有機物の補給がなければ土壌の物理性が悪化して,作物生育の低下だけでなく,土壌侵食が激化して,生産基盤そのものが劣化してしまう。また,養分補給の観点からリービッヒは,化学肥料施用で代替できるので,輪作不要とした。しかし,連作で土壌伝染性病害虫が集積して甚大な被害が生ずることは,野菜などで日本は痛感してきている。リービッヒの優れた点と誤った点とを,正確に評価する必要がある。