●はじめに
植物の無機栄養(植物が基本的に無機養分だけを吸収して生育できる)と,最小律(植物の生長は必要な養分のうちの最も少ないものによって制限される)は,ドイツの科学者のリービッヒによって発見・定式化されたと一般にいわれている。しかし,それが誤りであることを記した下記論文が,アメリカ土壌学会雑誌に掲載されていた。
van der Ploeg, R.R., W. Böhm and M. B. Kirkham (1999) On the origin of the theory of mineral nutrition of plants and the law of the minimum. Soil Science Society of America Journal 63: 1055-1062.
3人の著者はそれぞれ,ドイツのハノーバー大学の土壌学研究所,ゲッチンゲン大学の農学・植物育種研究所,アメリカのカンサス州立大学の農学部の所属である。この論文の概要を紹介する。
●腐植説
1800年頃,植物の生育は腐植説によって説明されていた。腐植説とはすなわち,植物は腐植に由来して土壌溶液に溶けている,炭素,水素,酸素と窒素からなる有機物の単純な水溶性化合物を根から吸収して,複雑な植物組織を再構成する。そして,植物は,自らの生命力によって,これら4つの元素からケイ素やカリウムのような生命に必要な他の成分を生み出すことができる。塩類や石灰などは腐植の分解と土壌溶液への有機物の溶解を促進するために,植物生育に役立つとされた。この腐植説の支持者が,実践的な農業書である『Grundsätze der rationellen Landwirthschaft』(相川哲夫訳『合理的農業の原理』上中下巻.農文協)の著者であるテーア(Albrecht Thaer: 1752-1828)であった。
●シュプレンゲルの生涯
シュプレンゲル(Philipp Carl Sprengel: 1787-1859) は,1787年に北ドイツのハノーバーの近くの郵便局を兼ねた農家で生まれた。子供のときから農業に強い関心を示し,15歳のとき,北ドイツのツェレにあったテーアの農業専門学校に入学(1802-1804年) した。1804年にテーアとともに,ベルリンの北東にあるメーグリンに移り,1808年までテーアの助手として働いた。その後,1808年から1817年まで,ザクセン,シュレジア,チューリンゲンの大農園で農業アドバイザー兼マネージャーとして働いた。この期間,冬の間はドレスデンに住むことが多く,そこでなかでも化学を勉強した。その後,彼は自国とスイス,フランス,ベルギー,オランダを頻繁に旅行して農業についての視野を広め,いろいろな気候条件,土壌,作物,泥灰土,肥料についての見識を高めるとともに,農業を前進させるためには,しっかりした農業基礎科学の構築が必要なことを確信した。
基礎科学に基づいて農業の原理や方法を探求するために,シュプレンゲルは1821年に34歳でゲッチンゲン大学の自然科学の学生になり,化学,物理,植物学,鉱物学,数学の課程をとった。1823年に化学と経済学の博士号を取得し,同大学でさらに8年間,農芸化学の研究を実施し,1826年に講師になり,1827-28年の冬セミナーで週5時間農芸化学の課程を教え,一般農学の課程も教えた。1831年にブラウンシュバイクに移り,農林大学の教授になり,新しい研究・試験場を率いた。しかし,約束されていた研究・試験場は設立されなかったため,1839年にブラウンシュバイクを失望の下に去った。
同年,レーゲンバルト(現在はポーランド領のレスコ)に移り,彼はポンメルン地方の半官半民の(農村)経済学会の事務局長になった。彼の主たる義務は農業の研究,教育,普及を助長することであった。1842年にシュルレンゲルは,レーゲンバルトに私塾ではあるが,州の支援を受けた農業専門学校を設立した。ここで教育の主たる部分を行なうと同時に,試験場の運営も行ない,農業機械用の工場と酪農工場も設置した。ここで彼は,自らの無機植物栄養理論の応用性を,圃場スケールの作物輪作システムで証明することができた。シュプレンゲルは1841年,54歳のとき19歳の女性と結婚し,女と男の2つの子供をえた。心臓疾患で1859年4月19日,レーゲンバルトで生涯を終えた。72歳であった。
●シュプレンゲルの仕事
A.無機栄養説
シュプレンゲルはゲッチンゲン大学で,主に植物(栽培植物と野生植物)中の構成成分と,それが生育していた土壌の腐植抽出物中の水溶性構成成分を分析した。植物灰から様々な塩類を検出し,抽出液中に硝酸,硫酸塩,塩化物,リン酸塩のアルカリ塩類を認めた。この結果は1826年に論文として刊行された(Sprengel,C.1826. Uber Pflanzenhumus, Humussäure und humussäure Salze (About plant humus, humic acids and salts of humic acids). Archiv für die Gesammte Naturlehre 8:145-220.)。抽出液中に硝酸,硫酸塩,塩化物,リン酸塩のアルカリ塩類が認められたことは,当時最新の腐植説と矛盾していた。
一方,1804年にスイスの植物生理学者のニコラ・テオドール・ド・ソシュール(Nicolas-Théodore de Saussure, 1767-1845)が,植物が大気と二酸化炭素と酸素のガス交換を行ない,植物根が土壌から塩類を吸収できることを示していた。例えば,ド・ソシュールは,窒素は根で吸収されるが,大気からは同化されないことを示していた。しかし,腐植説の信奉者から評価されていなかった。シュプレンゲルは,自身が以前に植物灰で測定していた塩類と,ド・ソシュールの植物根から吸収した塩類や大気から同化した二酸化炭素についての仕事に照らして,腐植抽出物中のこれらの水溶性塩類は実際の植物養分であると推定した。したがって,この論文でシュプレンゲルは,基本的には腐植説の誤りを証明していた。
因みにこの論文が掲載された雑誌(Archiv für die Gesammte Naturlehre)の編集者は,エルランゲン大学の化学者のカストナー教授(Karl Wilhelm Gottlieb Kastner)で,彼の指導の下にリービッヒは1823年博士号を取得していた。また,リービッヒの論文も当時この雑誌にしばしば掲載されており,1826年にも掲載されていた。それゆえ,リービッヒがシュプレンゲルの上記論文を読んでいたことは容易に推定される。
B.最小律
その後,シュプレンゲルは多数の根域全体を分析し,1828年に,表土だけでなく下層土で測定した様々な無機化合物について,作物養分としての関連性,肥料としての利用可能性,分析方法を論じ,アンモニア(NH3)については肥料製造の可能性を論じた(Sprengel,C. 1828. Von den Substanzen der Ackerkrume und des Untergrundes (About the substances in the plow layer and the subsoil). Journal för Technische und ökonomische Chemie 2:423-474, and 3:42-99, 313-352, and 397-421.)。そして,上述の最初の論文で著したよりも正確に,合計でN, P, K, S, Mg, and Caを含む20元素を植物の無機養分とする理論を記述した(p. 432)。この論文(p.93)で,彼は基本的には最小律も定式化し,塩化ナトリウムの肥料としての使用に関する論議のなかで,シュプレンゲルは下記のように述べている。
「以前に記したように,雨水は塩類を含んでいることが多いので,塩類は土壌に存在している。しかし,このことは,土壌が常に植物に旺盛な生育を許すほど十分な量が存在していることを必ずしも意味しない。特に栽培植物についてはそうであり,この理由のために,塩類の施用が最近では多くの認識をえてきている。そして,同じような良好な結果が必ずしもみられないとすると,それは,土壌に既に十分な塩類が存在していたか,あるいは,作物生育に必要な物質のどれか1つがなかったためである。植物が生長するのに12の物質を必要とするときに,そのうちの1つでもないと生育しなくなり,その1つが植物の本来必要としているだけの十分な量を利用できない場合には,生育が必ず悪くなることに,疑いの余地がない。」
彼はこの最小律を少し違った言葉で,他の論文(例えば,Sprengel, 1831, 1839)でもくり返した。少なくともドイツの同時代の学者は,この法則がシュプレンゲルによって定式化されたとの知識を有していたと想定できる。彼の1828年の論文はJournal för Technische und ökonomische Chemie (edited by Otto Linn&eaute; Erdmann)に掲載され,この雑誌にシュプレンゲルは1828-1833に20超の論文を刊行し,そのうちのいくつかは複数の部分に分割されていた。この時期のJournal für Technische und ökonomische Chemieは評価の高い雑誌で,リービッヒ,ゲイ・リュサック(注:気体の体積と温度の関係を示すシャルルの法則の発見者の一人),ベルセリウス(注:元素記号を提唱し,原子量を精密に決定し,新元素を発見・単離)といった学者の論文もしばしば掲載された。また,シュプレンゲルは,ゲッチンゲン大学に在籍中に農芸化学について2巻の書籍を出版した。第1巻は土壌化学の無機的側面,第2巻は有機的側面を扱った(Sprengel,C.1831 and 1832. Chemie för Landwirthe, Forstmänner und Cameralisten (Chemistry for agronomists, foresters, and agricultural economists). Volume 1 and 2.Vandenhoeck und Ruprecht Publ. Co., Göttingen, Germany.)。この両著書でシュプレンゲルは,植物の無機栄養説と最小律を詳細に説明した。
シュプレンゲルの植物の無機栄養や最小律に関する研究はゲッチンゲン大学時代になされ,その後は研究管理の仕事が多くなり,実験を落ち着いて行なう環境でなくなった。そうした状況下で,1837年に土壌学,1838年に栽培科学と土壌改良,1839年に肥料科学に関する教科書,1847年から1852年の間に,自らの作物生産に関する経験をまとめた3冊の書籍を出版した。
なお,リービッヒが最小律を明確に自らの著作に記載したのは1855年の下記論文であった。
Liebig, J. von. 1855. Die Grundsatze der Agricultur-Chemie mit Riicksicht auf die in England angestellten Untersuchungen (in England: The relations of chemistry to agriculture and the agricultural experiments of Mr. J.B. Lawes). 1st and 2nd ed. Friedrich Vieweg und Sohn Publ. Co., Braunschweig, Germany.
その第1版で,次のように分けて最小律を記載した。
- 1つの必要な構成要素の不足ないし欠如によって,他のものが全て存在していても,土壌は当該要素を必須とする全ての作物にとって不毛となってしまう。
- 植物の生育に対して同じ大気条件を与えた場合には,収量は肥料で供給された無機養分量に正比例する。
- 無機養分の豊富な土壌では,同じ物質の添加量を増やしても圃場での収量を増やすことができない。
●リービッヒ
リービッヒ(Justus von Liebig: 1803-1873)は,南ドイツのダルムシュタットで生まれ,生家は薬局を営んでいた。父のラボで子供のうちから化学に親しみ,高等学校の卒業を待たず,16歳でボン大学に入学し,次いでエルランゲン大学で学んだ。彼の傑出した能力は直ぐに認められ,1823年には上出したエルランゲン大学のカストナー教授の指導の下で,医学・哲学博士号をえた。因みに同じ年にシュプレンゲルはゲッチンゲン大学から博士号を得たが,リービッヒは20歳,シュプレンゲルは36歳であった。翌年,わずか21歳でリービッヒはギーセン大学の教授職をえて,1825年に同大学で正教授になった。1822年から幅広く出版活動を行ない,最初は主に無機化学の話題について論文を書き,1830年以後,有機化学と薬学について増やしていった。1830年代の終わりまでにはすでにリービッヒは傑出した世界的に有名な科学者で,化学と薬学の一線級の雑誌に,インパクトの高い300の論文を出した。
1837年にリービッヒは,イングランド学術協会から,有機化学と有機分析の進歩の状況を講演するように依頼された。この報告の農学と生理学に関する部分が3年後に出版された(Liebig, J. 1840. Die organische Chemie in ihrer Anwendung auf Agricultur und Physiologie (Organic chemistry in its applications to agriculture and physiology). Friedrich Vieweg und Sohn Publ. Co., Braunschweig, Germany.:吉田武彦訳. 1986. 化学の農業及び生理学への応用. 北海道農業試験場研究資料.1-152. )。
最も注目すべきは,シュプレンゲルは1826年と1828年に無機栄養説と最小律について論文を出しているのに対して,リービッヒはこれらの話題について,この講演記録の1840年まで何も出版してなかったことである。しかし,彼は編集していた雑誌(Annalen der Pharmacie)で,例えば1835年のシュプレンゲルの樹木のミネラル組成に関する論文など,農芸化学に関連した他者の寄稿論文を掲載していた。
1940年にアメリカ科学振興協会(American Association for the Advancement of Science)が,「リービッヒの有機化学の農学および生理学への応用」出版100周年記念シンポジウムを主催し,その記録を1942年に刊行した。そこでアメリカ農務省のブラウン(Browne)は,「リービッヒが偉大な傑出した有機化学者であっても,1840年において農芸化学についての権威であったことが認定されたものではない。」と指摘した。そして,彼はさらに,リービッヒは「彼の本が(1842年に)刊行されるよりもはるかに前に,シュプレンゲルが,リービッヒ自身がその後に明確に示したものとほぼ同じ腐植と無機肥料についての意見を公表していたことを無視した」ことを記している。
同じシンポジウムでワックスマン(Waksman)とブラウンは,それぞれ腐植説と最小律について,「植物がそのミネラルを直接土壌から得ている事実は,既にシュプレンゲル(1838)によってリービッヒの講演の2年前に明確に概要が述べられており,しかも最小律の定式化はシュプレンゲル(1837)にみることができる。」と指摘した。ブラウン (1944)は自らの農芸化学の歴史に関する著書の序文で,「彼の著書” Organic Chemistry in its Applications to Agriculture and Physiology”で,リービッヒは,新しい知識の発見者というよりも,既に公表されていた真実の伝道者かつ擁護者であった。」と記述した。
また,シュプレンゲルの生涯と研究について各種の文献を精査して評論を書いたドイツのヴエント(Wendt, G. 1950)やベーム(B öhm,W. 1997)の両者は,シュプレンゲルが植物の無機栄養説の真の創設者であって,リービッヒは不屈の闘士として当該学説が受け入れられるための闘いにおいて尽力したとみなすべきであると結論した。そして,多くの者は,世界的に著名な科学者のリービッヒが,当時,話題になっていた疲弊した土壌,人口増加,飢餓の脅威を背景に,当該問題にほどほどの馴染みしかないために,必ずしも正しくはなかったが,挑発的に化学によって土壌や食料問題を解決できることを宣伝し,大きな注目を集めた。彼の名声,問題に対する熱情,論争の仕方によって,リービッヒは植物の無機栄養説が広く受け入れられるのを実現したとしている。
ファン・デル・プレーグらは,別の論文(van der Ploeg, Rienk R., P. Schweigert, and J. Bachmann (2001) Use and misuse of nitrogen in agriculture: the German story. The Scientific World 1(S2), 737-744. )で次のように指摘している。すなわち,シュプレンゲルは1828年にいち早くアンモニアや硝酸を肥料として使用することを推薦した。これに対して,農業についてろくに知識のないリービッヒは,大気中にあるアンモニアのプールから降雨で土壌にアンモニアが供給されるため,圃場の作物に窒素を施用する必要がないと強力に主張した。この主張をイギリスの有名なロザムステッド研究所の創設者の1人であるローズ(John Lawes: 1814-1900)を相手に行なったので,注目を集めた。リービッヒは農学についての知識に乏しいにもかかわらず,誤った主張をして世間の注目を集め,それが無機栄養説の普及にも貢献した,と。
●まとめ
シュプレンゲルこそが1820年代と1830年代に腐植説が誤りであることを証明し,植物は生長のために無機元素を要求するという,植物の無機栄養説を主張し,最小律を定式化し,土壌学と植物栄養学の基礎を構築した。それゆえ,シュプレンゲルは農芸化学の設立者の1人に認定するのにふさわしい。
では,無機栄養説や最小律を明らかにした科学者としての栄誉をリービッヒから剥奪して,シュプレンゲルだけのものとすべきなのか。「ドイツ農業関係試験研究機関協会」(Association of German Agricultural Experimental and Research Stations)は,シュプレンゲル・リービッヒメダルを創設し,農業における傑出した業績をあげたか農業に貢献した者に定期的に授与している。そうすることによって,プライオリティとインパクトについての論争を回避し,先駆的なシュプレンゲルとリービッヒを同等に認知・記念している。こうした歴史的経過を考えると,最小律を今後は,「シュプレンゲル・リービッヒの最小律」と呼ぶのが適切と考えられると,著者のファン・デル・プレーグらは記している。
●シュプレンゲルはなぜ長い間無視されてきたのか
シュプレンゲルが1820年代や1830年代に発表した無機栄養説や最小律についての研究は,なぜか注目されなかった。著者のファン・デル・プレーグらは,例えば,Russell, E.J.R.の著名な1952. Soil conditions and plant growth. 8th ed. Longmans, Green and Co., London(藤原彰夫ら訳「植物生育と土壌」1956. 朝倉書店)をしばしば引用しているが,その第10版でもシュプレンゲルの1830年代に行なった植物の灰分中のミネラルを調べた仕事を引用しているが,無機栄養説や最小律の創設者としては全く評価していない。彼のオリジナル論文は,ドイツ外ではほとんど読まれていなかったことが推察される。ファン・デル・プレーグら(2001)は,シュプレンゲルの論文はドイツ語だけだったので,国際的にはほとんど注目されなかったと指摘している。
シュプレンゲルについての最初の伝記がドイツ語でギーゼッケ(F.Giesecke)によって1945年に書かれたが,その原稿は刊行されなかった(原稿と関係資料はシュツットガルトのホーヘンハイム大学の図書館に保存されているとのこと)。この原稿を調べたWendt (1950)は,リービッヒが適切な謝辞なしに自らの著書にシュプレンゲルの仕事から採った部分がどこかと,両者の長い不和の論拠を記述している(Wendt, G. 1950. Carl Sprengel und die von ihm geschaffene Mineraltheorie als Fundament der neuen Pflanzenernährungslehre (Carl Sprengel and his mineral theory as foundation of the modern science of plant nutrition). Ernst Fischer Publ. Co., Wolfenbuttel, Germany.)。しかし,リービッヒは無礼にもシュプレンゲルの苦情を無視し,植物の無機栄養説を自らのものとして押し通し続けたという。
吉田武彦氏が訳された,リービッヒの「化学の農業及び生理学への応用」を読むと,リービッヒはシュプレンゲルが行なった腐植の化学的特性に関する研究結果は引用しているものの,植物の無機栄養や最小律についてはシュプレンゲルについて全く論及していない。
勝手な想像だが,当時科学として低いレベルと見なされていた農学の,しかも農業実践の経験を重ねて,34歳になって大学に入学したシュプレンゲルを,高いレベルの有機化学のエリートであるリービッヒは無視し続けたと想像される。もしもリービッヒがロンドンの講演で,無機栄養説を展開しなかったら,無機栄養説の普及は遅れたであろう。
では,シュプレンゲルの功績が日本で認識されず,今日までリービッヒだけの功績と認識されているのはなぜだろうか。アメリカのアメリカ科学振興協会(AAAS)は,雑誌「サイエンス」を発行している団体で,科学の振興と科学者の連携を図っている。この団体が,上述したように,「リービッヒの有機化学の農学および生理学への応用」出版100周年記念シンポジウムを1940年に開催し,その記録を1942年に発行した。この時期は太平洋戦争の直前と最中であり,日本にはその内容は伝えられなかったであろう。
吉田武彦氏はリービッヒの「化学の農業及び生理学への応用」の翻訳を解説した部分(12頁)で「無機栄養説の先駆者とみなされたSPRENGEL」と記している。吉田氏がシュプレンゲルを無機栄養説の先駆者と表現したのは,リービッヒの論文によらないことは明白だが,何に基づいて表現されたのか,またシュプレンゲルが無機栄養説の先駆者なら,リービッヒが無機栄養に関するシュプレンゲルの仕事をもっと積極的に引用しなかったのはなぜだと考えられたのか。こうした点について氏のご意見を聞きたかったところである。
しかし,日本の学会が,ここで紹介した1999年のファン・デル・プレーグらの論文に基づいて認識を改めなかったのは残念至極である。今後は日本でも無機栄養説と最小律は,シュプレンゲル・リービッヒの無機栄養説と最小律と表記すべきであろう。