●3つの農業生物多様性
生物多様性は,全ての生息地に生息している,あらゆる生物の多様性を対象にしている。1992年に作成された国連の「生物多様性条約」(発効は1993年)は,「生物の多様性が進化および生物圏における生命保持の機構の維持のために重要」であり,「生物の多様性およびその構成要素が,生態学上,遺伝上,社会上,経済上,科学上,教育上,文化上,レクリエーション上および芸術上の価値」を有していることを指摘している。このうち,農業にかかわる生物多様性が「農業生物多様性」と呼ばれ,国際機関や多くの国の農業政策のなかで,重要な位置を占めるようになっている。
農業における生物多様性については,しばらく前までは,希少種の保全に焦点が当てられていた。しかし,最近では,生物多様性の高まりないし種の豊かさが,一次生産や養分保持のような生態系機能を高めるか否かに関心が移っている。
環境保全型農業レポート「No.184 西ヨーロッパと他国の農業生物多様性の概念の違い」に紹介したように,農業環境技術研究所のデイビッド・スプレイグ(2007)は,農業生物多様性を,農地や農村などからなる農業環境に生息地を見いだしている生き物の多様性を指すとして,以下の3種類に分類している(デイビッド・スプレイグ(2007) 西ヨーロッパと日本における農業生物多様性に関する概念と価値観.植物防疫.61(11): 611-615)。
(1) 作物や家畜の品種およびその遺伝的な多様性。
(2) 農業生産を支える野生種(土壌生物や花粉媒介昆虫など,農業生産の基盤となる生態系を織りなし,生態系サービスを提供している生物を指す)の多様性。
(3) 農業生産によって創造された農地を生息地にして生活する野生種の多様性。
●有機農業の農業生物多様性に及ぼす影響に関する2つの総説
作物や家畜の品種の多様性は世界的に乏しくなり,集約農業で高い収量を上げられる品種に限られるようになってきてしまっている。この品種を除く,上記の(2)農業生産を支える野生種と,(3)農地を生息地にしている野生種の多様性に対する有機農業の影響については,次の2つの総説が最近の研究をまとめている。
Gomiero T., D. Pimentel and M, G. Paoletti (2011) Environmental Impact of Different Agricultural Management Practices: Conventional vs. Organic Agriculture. Critical Reviews in Plant Sciences, 30(1-2), 95-124
Winqvist,C., J.Ahnström and J.Bengtsson (2012) Effects of organic farming on biodiversity and ecosystem services: taking landscape complexity into account. Annals of the New York Academy of Sciences 1249 (2012) 191-203
これらに基づいて,有機農業による生物多様性の向上の概要と問題点を紹介する。
●有機農業による生物多様性の向上
有機農業では,除草剤,殺虫剤などの農薬や化学肥料を使わず,多様な作物輪作や堆肥などの有機物資材の投入によって,細菌,糸状菌,トビムシ,ダニ,ミミズに代表される土壌微生物や土壌小動物の数や活性が,農地のなかで集約度が相対的に最も高い耕地で,増加することが広く確認されている(Gomiero et al. 2011)。
また,土壌生物を除くと,有機農業など環境にやさしい農業によって耕地で,種の豊かさや存在数が最も増加したのは,植物に次いで無脊椎動物であり,鳥類や哺乳動物の増加は少ない傾向が認められている(Winqvist et al. 2012)。野生植物,つまり,雑草の種の豊かさや存在数が有機農業で増加するのは除草剤を使用しないからで,これに加えて,慣行農業に比べて,有機農業では穀物の生育量が慣行農業よりも減って,土壌表面被覆量が減ることも,雑草増加の一因になっている。
無脊椎動物のなかの昆虫などの節足動物は,有機農業によって殺虫剤が使用されなくなると,増加するのが一般である。直接的には殺虫作用がなくなるためであるが,同時に,捕食性昆虫などでは餌動物が回復してくることもその要因である。
しかし,生物のなかには,有機農業で必ずしも増加しない種類も認められている。例えば,有機圃場は全体として慣行圃場よりも節足動物が豊かであるが,真正クモ目,甲虫目,双翅目のようなグループでは,有機圃場と慣行圃場の間で差が認められていないケースもある。このような生物グループによる違いを無視して,一律に論ずることは危険である。
とはいえ,有機農業は,現代農業によって引き起こされた環境の汚染や劣化の問題に対する唯一の解決方策ではないが,生物多様性に関しては,有機農業は慣行農業よりも一般に良い結果を生じていると,Winqvist et al. (2012)は記している。
●有機農業の生物多様性に対する影響は周囲の景観によって異なる
我々は有機圃場と慣行圃場の生物多様性を論ずる際に,周囲の景観を考慮していないことが多い。しかし,Gomiero et al. 2011やWinqvist et al. 2012は,耕地の生物多様性が周囲の環境の影響を強く受けている事例を多数紹介している。例えば,昆虫などの節足動物や鳥類は,1年の間に,越冬や繁殖のために異なる生息地を利用している。そして,農地と農地の間に野生動物が移動できる回廊(コリドー)が存在すれば,種の豊かさが増す。また,耕地内の雑草種は,耕地圃場周囲の外縁部の雑草や,周囲の草地や森林の雑草の影響を受けていていることが観察されている。
有機農業は輪作などによって,生物たちの生息地として,慣行農業よりも複雑な構造を持っている。とはいっても,多くの有機農場は慣行圃場のなかに孤立していることが多く,生息地の不均質性があまり高くないのが通常である。しかし,森林,草地,耕地,水辺など,多様なモザイク状の景観が地域を形成していれば,より多くの生息地が存在するために,地域には多くの種が生息できる。
このため,自然や半自然の生息地や,伝統的農法で管理されている生息地がたくさんある不均質な景観は,既に高い生物多様性を有している。したがって,こうした複雑な景観を有する地域のなかに,わずかな面積割合の有機農業を導入したとしても,地域の生物多様性を高めるとは思えない。しかし,一面の耕地からなる均質な景観のなかに有機農地を導入すれば,有機農業による生物多様性増加の効果は最大になると推定されている。
EUは,環境の汚染や破壊を防止・修復できる有機農業などの環境にやさしい農業を実践する農業者に,奨励金を支給する農業環境事業を実施している。が,これまでに実施された農業環境事業は,単純な景観では種の豊かさを有意に高めるが,複雑な景観ではそうでないことが,分析によって確認されている。
●生態系サービスの向上を確認する研究が必要
なぜ生物多様性を大切にするかの1つの理由が,野生生物によって発揮されている生態系サービスを維持・増進することである。生態系サービスは,生態系から人類が受ける恩恵である。耕地の生態系サービスには,訪花昆虫による授粉,天敵生物による害虫の生物防除,植物の光合成による二酸化炭素の固定と酸素ガスの放出,土壌生物による有機物の分解と養分の放出などがある。
これまでの生物多様性の研究では,ある時間断面において,有機圃場に生息している生物の種と存在数が増加したことから,生態系サービスが向上したと推定している。しかし,生態系サービスが実際に向上したことを確認した研究は少ない。例えば,ミツバチによる授粉についてみると,ミツバチ個体数が増加したことから,その機能が向上したろうと推定している。しかし,当該植物の花が開いている短い期間にミツバチがどの程度授粉させて,結実させ,その種子の質はどうであったかの確認を行なった研究が少ない。この問題においてWinqvist et al. (2012)は、ミツバチは有機圃場だけでなく他の環境も利用しており,周囲の他の環境を含めた景観全体で,地域の農業の集約度を全体的に下げ,自然ないし半自然植生を維持ないし回復させて,営巣地や餌源を提供することも考慮した研究が必要であることを強調している。
また,執筆者は,EUの農業における生物多様性に関する研究では,野生鳥獣による作物被害に関するものが目に付かないことがなぜなのか,疑問を抱いている。