No.184 西ヨーロッパと他国の農業生物多様性の概念の違い

●はじめに

日本や世界で,生物多様性を重視した農業の重要性が強調されている。しかし,生物多様性は森林,海洋,湖沼,河川,山岳,都市など,あらゆる場で問題になるのであって,農業の場での生物多様性とはどういうもので,国によって理解の仕方は同じなのか違うのか。こうした基本的問題を下記文献が解説している。その概要を紹介する。ただ,元の文献は紙面の制約のためか,説明不足の点が感じられる。そこで本稿では,補足を行ないながら紹介する。補足部分は【補足】と記した箇所である。

 デイビッド・スプレイグ(2007) 西ヨーロッパと日本における農業生物多様性に関する概念と価値観.植物防疫.61(11): 611-615

著者はアメリカのイェール大学でPh.D.を取得し,京都大学や筑波大学でニホンザルの生態を研究した後,農業環境技術研究所に移籍。同所の研究職員紹介によると,現在は,農村景観を形成する土地利用の空間構造およびその歴史的変動を GIS(地理情報システム)で解析し,農業環境が提供する生態系サービス,特に生物多様性と自然資源を提供する能力に影響する空間要因を明らかにする研究にたずさわっている。また,野生生物(特にニホンザル)による農作物被害がなぜ近年増加しているかを調べる手法の開発も行なっている。

●3つの農業生物多様性

生物多様性は,全ての生息地に生息しているあらゆる生物の多様性を対象にしている。このうち,農業にかかわる生物多様性が「農業生物多様性」(agro-biodiversity;ヨーロッバではagri-biodiversityとも書く)と呼ばれ,国際機関や多くの国の農業政策のなかで重要な位置を占めるようになっている。

農業生物多様性とは,農地や農村などからなる農業環境に生息地を見いだしている生き物の多様性を指すが,以下の3種類に分けられる。

(1) 作物や家畜の品種およびその遺伝的な多様性。

【補足】農業の商業化が進むと,収益性の高い特定の品種や系統への集中化が生じやすい。例えば,日本で最も作付面積比率の高かった水稲品種は,1955年には農林18号で4.4%にすぎなかった。しかし,1970年の減反政策開始以降,コシヒカリが徐々に増え,現在ではコシヒカリが35〜39%の間で断然の1位となっている。乳牛では圧倒的大部分がホルスタインとなっている。しかし,温暖化など生産環境条件の変化,価格や量についての需要変化が生ずると,新しい品種が必要になる。そのためには,在来品種など遺伝子レベルの多様性が次の新しい品種の開発に必要であり,このために,生産性が低くとも在来品種の継続生産や,ジーンバンクでの保全も大切である。この継続使用しているあるいはジーンバンク保存中の品種の多様性は,OECDでも指標化されている。

(2)農業生産を支える野生種。

土壌生物や花粉媒介昆虫など,農業生産の基盤となる生態系を織りなしている生物を指す。

【補足】EUの土壌生物多様性に関する報告書は,土壌生物が農業生産を支える重要な役割を果たしており,土壌生物をその機能面から,化学エンジニア,生物レギュレータと生態系エンジニアの3つに分類して解説している(環境保全型農業レポート.No.156 EUが土壌生物の多様性に関する報告書を刊行)。

(3) 農業生産によって創造された生息地に依存して生活する野生種。
農業生産にとっての害益は問わず,全ての野生種をさすが,ここにいわゆる「ただの虫」や生活に身近な生き物が多く含まれる。

【補足】自然林などの自然生態系と比べて,農地や農村は広々としたオープン空間を持ち,1年たつと収穫がなされて,植物遷移が断ち切られ,同じ状態が再現されている。しかも,伝統的な農業ではそうした状態が数100年にわたって再現された。このため,自然生態系と異なる環境が創出されて,そこに適応した多様な野生生物が定着した。

例えば,放牧地から家畜が逃げ出すのを防止するための生垣(立木の幹の下部に切断しないようになた目を入れ,木を生かしたまま折り曲げて枝を密に絡み合わせ,家畜の出入りを防止する生垣)や,石垣(自然石を積み上げた石垣で,石と石の隙間はセメントなどでふさいでいない)を住み家にして,オープンフィールドで餌をとる農地鳥類(farmland birds)が農業の展開とともに共進化した。

そして,農業の営みと全く接することのない生き物,そして農業生産と相いれない生き物は農業生物多様性から外れる。農業生物多様性とは,農業と何らかの形で共生してきた生き物を対象と考えるとしている。

●西ヨーロッパにおける農業生物多様性の概念

3つの農業生物多様性のうち,西ヨーロッパ諸国の生態学者は農業と共生する生き物に着目した概念,つまり,上記の(3)を最も重視している。こうなったのにはいくつかの理由がある。

(1) ヨーロッパの自然環境は,非常に長期にわたる強い人為的影響のもとに創造されてきた。その人為的影響とは,何千年にもわたるヨーロッパの牧畜と農業と林業にほかならず,半農・半牧畜からなる伝統的な牧草地と混用林が生物多様性を育んできた。もはや西ヨーロッパには,厳密な意味での「原生自然」は全くといって良いほど残されていない。

(2) 西ヨーロッパの農業地域は広く,EU諸国の面積の約半分を占めている。

【補足】因みに,2008年におけるEU27か国の国土に占める平均農地面積率は44.2%である(最低はスウェーデンの7.5%,最高はイギリスの73.1%:図1)。
これらの地域をすべて「非自然」と定義してしまうと,潜在的な生物生息地の多くを除外してしまうことになり,環境保全の対象は極めて限られてしまう。ヨーロッパの少なからぬ生態学者は,農業環境を保全・管理することにより彼らの国々の生物多様性が守られる,と確信して研究をすすめている。

(3) 伝統的粗放農業が育んできた西ヨーロッパの生物多様性が近代集約農業によって脅かされており,生物種の個体数や生息地の減少は近年における農法の変化によるものである,と仮定する研究がヨーロッバ各地で展開されている。また,過疎化や農業の衰退による管理放棄が農村景観を脅かしている,という問題意識が同時に存在する。そして,草地性の生き物を重視する西ヨーロッパの生態学者にとって,植生の自然遷移によって草地が自然と森林へと遷移する場合が多いが,これを由々しき事態と考える。

EUのこうした視点に立って,生物多様性を重視する価値観で使われる言葉を表1に示す。表の左側には良い状態,右側には悪い状態を表す言葉がまとめられている。それぞれの言葉は単語として使用される場合もあるが,単語を組み合わせた表現として使われる場合も多い。

●新大陸の国々の生物多様性の概念

オーストラリアやアメリカのような新大陸の国々は,移民到着以前の環境を自然(natural)と考え,移民によって開拓された地域は人工的(artificial)と見なすことか多い。現在の農業地域は開拓されたもの以外の何物でもなく,非自然であり,農業を止めることにより自然が回復する,と通常考えられている。

この価値観は,アメリカの実施している農業環境施策にも反映されている。アメリカ農務省はConservation Reserve Program(保全留保プログラム)という政策のもと,農家が耕作を停止し,農地を樹林地や自然湿地に戻すと,その土地に対して補助金を給付する。あくまで「自然」に返すことを支援する政策を実施している。

【補足】先進国で構成するOECD(経済協力開発機構)は,貿易自由化をゆがめる政策を抑制して自由化を促進する観点から,加盟国の農業環境政策が環境保全に役立たないものなのに農業者への補助金を支給していないかなどを判定するために,農業環境指標を策定している(環境保全型農業レポート.No.114 OECDの指標でみた先進国農業の環境パフォーマンス)。

OECDの農業生物多様性指標では,価値の高い農業環境の状態として,半自然的な農業環境を中心に据えている。そして,農法の変化によって,環境は,集約的農業環境か耕作放棄自然環境のどちらかの方向に移行する状況を想定し,いずれの方向へ移行しても農業生物多様性は損なわれると仮定している。しかし,新大陸の国々の人達には,半自然という概念はわかりにくいようであったとのことである。

【補足】カナダとアメリカの研究者(Baylisaら,2008)は,EUとアメリカの農業環境政策の違いを比較検討し,概略次のまとめを行なっている(環境保全型農業レポート.No.105 EUとアメリカの農業環境政策の違い)。すなわち,EUの農業環境政策は,集約度の低い伝統的な農業こそがヨーロッパの農村の景観や生物多様性を育んできたのであり,農地が耕作放棄されてヤブを経て森林に戻るよりも,伝統的な農業によって使用されたときに,景観や生物多様性などの環境価値が最高に発揮されるという認識に立脚している。このため,耕作放棄地の拡大を抑制し,農地を伝統的あるいは集約度の低い農業によって維持するために,EUの農業環境支払のかなりの部分が使用されている。そして,マイナスの環境汚染や環境破壊は,伝統的農業から集約度の高い農業にシフトして,化学肥料,農薬,購入飼料などの投入物が過剰使用されために生じたことを重視している。

他方,アメリカの農業環境政策は,農地を生産から撤退させて自然に戻したときに,土地の環境価値がより高まるという考えに立脚している。それゆえ,農地を生産から撤退させて,野草地に戻したり植林したりするのに多額の予算を支出している。そして,農業による土壌侵食や生物多様性の喪失などの環境負荷や破壊は,環境的に脆弱な,高度に侵食されやすい傾斜地や,湿地を排水した干拓地といった限界農地の利用強度を高めたために,生じたことを重視している。

●水田は半自然農業環境か?

俗に日本は弥生以来,2000年の栽培農業の伝統があるといわれている。このため,長い農業の歴史のなかで,薪や堆肥材料の落ち葉を収集した雑木林(里山)や,毎年火入れをして管理してきたススキ草地など,半自然農業環境が存在しており,EUの主張に組みやすいようにも思える。しかし,管理された雑木林やススキ草地は激減してしまっている。その上,日本,東アジアや東南アジアで主体になっている水田は「半自然」といえるであろうか。著者のスプレイグ氏はこの点を問題提起している。

日本の河川は,急峻で多量の土砂を運んで平野部を形成した。しかし,平野部の多くは縄文海進で海の底になり,平野部の少ない山国となっている。日本人の先祖は,わずかに残された平野部や谷間の湿地を営々と水田にしてきた。こうして作られた伝統的な水田は湖や河川と水路でつながり,その間で魚類が往復しつつ繁殖するなど,水田が代替湿地として機能している。しかし,現代の機械化稲作に合わせて改良した水田はかなりの人工建造物であり,耕地そのものであるうえに,水田農業はかなり集約的なイメージと実体をもつ。このため,西ヨーロッパの人達に水田を「半白然」と主張する際には,よりきめ細かな概念の整理が必要であろうとスプレイグ氏はしている。そして,彼は,伝統的な水田は西ヨーロッパの半自然環境とは異なるが,半自然環境に位置づけられ,水田農業がおりなす景観も半白然生物生息地と見なせることをOECDの農業生物多様性会合で提案した。その際,水田と水路の圃場整備の状況に応じて採点し,昔ながらの圃場整備をせずに,用排水路を分離していない水田を100点満点の半自然度として,水田を生物生息地としての価値に照らして採点することも提案している (D. S. Sprague, S. Yamamoto, T. Amano and K. Matsumori (2010) Agri-environmental indicators for biodiversity in the rice paddy landscape. OECD Workshop on Agri-Environmental Indicators, Leysin, Switzerland, 23-26 March, 2010. 12p. )

●加盟国の政策によって農業生物多様性指評価は異なるはずだ

スプレイグ氏が述べた上記のOECDの農業生物多様性指標を設定する作業で,リーダーシップをとっているのはEUである。このEUの考えに強引さを感じる側面もある。この点について私見を述べる。

EUは,かつてヨーロッパ大陸の大方は森林で覆われて,森林性の動植物が優占しており,生物多様性はあまり高くなかった。農業が始まり,森林が伐採されてオープンフィールドが作られ,何百年にわたって毎年くり返された農業によって,安定的に作り出された環境に適応した動植物が共進化し,ヨーロッパの生物多様性が豊かになった。しかし,第二次大戦後の農業の集約化によって,農業生物多様性が損なわれてきた。このため,集約農業を止めて,伝統的な粗放農業を復活させて,農業生物多様性を豊かにすることが大切であり,そのために農業者を支援する政策を実施するとしている(ルイス・ノウィッキ (1998) 農業の環境便益:ヨーロッパのOECD諸国.OECD (1998) 農業の環境便益.p.81-108.家の光協会)。

こうした考えは,農業を継続させる観点から見た「開き直り」ともいえる。森林を減らして森林性動植物を減らしたことに対する反省もないし,農地性動植物に比べて原生の森林性動植物は下位にあるかのような論法である。農産物貿易の厳しい国際競争の中で,EUの農業と農業者を守るために展開した論理にすぎない。

アメリカやオーストラリアのように,農地開拓以前の環境がベストであるといった考えがあっても当然良いはずである。日本の伝統的な水田も代替湿地の半自然環境の一つであり,多様な水生生物を育み,その生物が日本人に親しまれ,日本の文化や風情の一部をなしているなら,それで高く評価されるべきであろう。

要は,農業生物多様性を農業の視点から評価するだけでは,国民の支持は得られないだろうということである。農業生産によって創造された生息地に依存して生活する野生種に問題を絞るとしても,どのような農地固有種が農地の何処の部分に生息しているのか,それらは絶滅危惧種なのか否か。そうした調査結果を国民に示した上で,農地に生息している生物に国民がどの程度親しみを感じているのか,国民が自然環境の生物多様性に対して農業環境の生物多様性をどの程度重視しているのかの世論調査も必要であろう。

OECDの農業環境指標のなかで取り上げられている余剰窒素量や余剰リン量は,国の農地全体で作物が吸収する窒素量やリン量に対して様々な形で投入した窒素量やリン量がどれだけ余剰であることを示す指標である。この2つの指標では,対象物質が限定され,計算方法も統一でき,その意義も明確であり,加盟国間で合意できる指標である。これに対して,農業生物多様性では加盟国の自然条件や農業状況の影響を受けて,対象となる生物の種類が異なるし,そのなかでどの種類を高く評価するかを,他の国が直ぐには同意できない場合も多いであろう。農業生物多様性評価は加盟国で大きく異なるはずである。こうしたことを考えると,農業生物多様性の指標を無理に一本化しなくても良いはずであろう。要は,農業生物多様性あるいは自然を含めた国全体の生物多様性が高まることが大切なはずである。