●環境保全型農業のあり方の見直し
1999年に「食料・農業・農村基本法」が公布されたが,農林水産省はこれに先だって,同法の基本骨格をスケッチした「新しい食料・農業・農村政策の方向」(新政策)を1992年に公表した。そのなかで,「農業の有する物質循環機能などを生かし,生産性の向上をはかりつつ環境への負荷の軽減に配慮した持続的な農業」を環境保全型農業と初めて定義して,その確立をわが国農業全体として目指す必要性を強調した。そして,農林水産省は1994年4月に関係団体に呼びかけて,環境保全型農業運動を全国展開するために,事務局をJA中央会に置く,全国環境保全型農業推進会議を設置した。この頃, WTO交渉に先駆けて日本が多面的機能の重要性を国際的に主張していたことを反映して,全国環境保全型農業推進会議の環境保全型農業推進憲章(1997年2月制定)では,環境保全型農業を「環境に対する負荷を極力小さくし,さらには,環境に対する農業の公益的機能を高めるなど,環境と調和した持続的農業」と定義し,環境負荷の軽減に加えて,公益的機能の向上を付け加えた。
今日でも環境保全型農業のこの定義あるいは枠組は誤っていない。しかし,その後の国内外での動向を踏まえて,新たに強調すべき点を付け加えた方が良い状況となっていた。
第一に,1999年のダイオキシン問題,2001年のBSE問題,2002年の登録外農薬の使用問題などで大きな関心を集めた食の安全・安心問題に,環境保全型農業の枠組も明確に論及すべきと状況となっていた。
第二に,農業の有する公益的機能として,これまで日本ではあまり重視されてこなかったが,国際的に重視されている農地土壌への炭素貯留による地球温暖化防止機能(有機物に組み込まれた炭素を難分解な土壌有機物として土壌に長期間貯留して,温室効果ガスの二酸化炭素やメタンになって大気に戻る炭素の量を減らす機能)や,農業の生物多様性保全機能を強調することが必要になった。
第三に,環境保全型農業の推進にかかわるいくつかの施策が実施されているが,そのなかには環境保全型農業を推進してゆくには不十分な施策や,新たに実施すべき施策もある。
こうした状況の下で,農林水産省は生産局農産振興課環境保全型農業対策室を事務局として,2007 年10 月から2008 年3 月まで8回にわたって「今後の環境保全型農業に関する検討会」を開催した。
環境保全型農業の実践では,特に土壌管理,IPM(総合的病害虫・雑草管理),家畜ふん尿の処理利用が大切になるが,農林水産省内でのこれらの担当部署が異なり,順番に,環境保全型農業対策室,消費・安全局植物防疫課および生産局畜産部となっている。今回の検討会の事務局が環境保全型農業対策室であることから,土壌管理を軸にして環境保全型農業にアプローチしている。ただし,IPMや家畜ふん尿の処理利用を排除しているわけではない。こうした事情から検討会では,下記の2つの問題を中心に論議が重ねられた。
(1) 農地土壌が有する多様な公益的機能と土壌管理のあり方
(2) 環境保全を重視した農法への転換を促進させるための施策のあり方
2008年3月に「今後の環境保全型農業に関する検討会報告書」がまとめられた。その概要を紹介する。
●農地土壌が有する公益的機能
農産物を生産・販売して利益を得るのは私益だが,農産物生産のために実施している営農行為に付随して広く国民に無償で提供しているサービスは公益である。農地土壌の持つ公益的機能として,報告書は下記を指摘している。
・作物生産機能(私益を生み出すが,同時に国の食料安全保障にもかかわっている)
・炭素貯留機能
・物質循環機能
・水・大気の浄化機能
・生物多様性の保全機能
因みにEUは,土壌の機能として,1)農業および林業を含むバイオマス生産,2)養分,物質および水の貯蔵,ろ過および変換,3)生息地,種および遺伝子などの生物多様性プール,4)人間および人間活動のための物理および文化的環境,5)原材料の供給源,6)炭素プール,7)地理および考古学的遺産の保管庫を上げている(環境保全型農業レポート. No.60.EUが「土壌保護戦略指令案」を提案)。このうちEUの4),5),7)は農地土壌に限った機能でないので,報告書は除外している。
●農地土壌の実態
報告書は,我が国の農地土壌の実態について次の諸点を指摘している。
「我が国の農地土壌の実態をみると,農業労働力の減少・高齢化,耕種と畜産の分離等を背景に,
(1) 堆肥等有機物施用量の減少により,土壌中の有機物含有量が低下傾向にある一方で,
(2) 土壌養分については,土壌診断に基づかない施肥等の実施により,塩基やリン酸等の養分の過剰や塩基バランスの悪化が顕著になる
など,地力の低下が顕在化している。」
ここで指摘された土壌有機物含有量の減少,塩基やリン酸などの養分の過剰や塩基バランスの悪化は,農地土壌が有する上記の5つの公益的機能(作物生産機能,炭素貯留機能,物質循環機能,水・大気の浄化機能,生物多様性の保全機能)を損なったり,低下させたりしている。
●今後の土壌管理のあり方
このため,環境保全型農業を推進するために,今後の土壌管理は以下を軸にして推進して行くとしている。
(1) 有機物の施用
「引き続き,稲わら堆肥の場合,水田については1t/10a 以上,畑については1.5t/10a 以上を目標として施用する。なお,他の堆肥を施用した場合の目標量についても,今後,農業者等に対して示していくことが必要である」。
「また,近隣に畜産農家が存在しないなど堆肥を容易に確保できない場合には,地力増進作物(ここでの「地力増進作物」は,エンバクやソルガム等有機物の集積効果の高いものをいう)のすき込みにより土壌への有機物の投入を行なう。」
(2) 土壌診断に基づく適正な施肥
「引き続き土壌診断,作物診断に基づく,適正な施肥を推進する。なお,肥料の原料価格が高騰する中で,生産コストの低減の観点からも適正な施肥を推進することが必要である。」
(3) 的確な耕耘
「引き続き的確な耕耘を行なうことを基本とする。」
なお,「不耕起栽培については,適地においては土壌の物理性の改善に高い効果を示すとともに,土壌への炭素の貯留,生物多様性の保全等にも高い効果を有することから,今後,一定の条件を満たす適地においては,不耕起栽培の取組の推進を図る。」
(4) 土壌改良資材の施用
「土壌改良の目的(どのような土壌の性質を改善したいか)に応じて,適切な土壌改良資材を選択し,施用を推進する。なお,特に,木炭については,土壌の透水性や生物性の改善を通じた生産性の向上のみならず,土壌炭素の貯留,土壌が有する水質浄化機能の発揮にも効果が高いことから,地域内の林業との連携等その施用を拡大するための課題等について引き続き検討を行なうことが必要である。」
(5) 多毛作・輪作
「土地利用率の低下が進む中,土壌養分の地下水への溶脱の抑制,水食や風食といった土壌侵食の防止の観点に加え,土壌炭素の貯留を推進する観点から,冬期間の作付け等多毛作の取組を推進する。特に,畑については,土壌中の有機物の分解が大きいことから,引き続き輪作体系の確保を図りつつ,地力増進作物等の導入により,有機物含有量の維持等地力の増進に努める。」
(6) 土壌侵食防止のための土壌管理
我が国には土壌侵食が起きやすい畑が多い。このため,水食防止のために,等高線に沿った畝立て,等高線にそって帯状の水平面を設ける等斜面分割,植物などによる地表面の被覆,土壌の圃場外への流出を防止するグリーンベルトの設置,耕盤による表面侵食を防止するための心土破砕,適地においては不耕起栽培を行なう。また,風食防止のために,畝の間隔を狭くする,風に対して直角に畝を立てる,植物などによる地表面を被覆する,特に冬期の裸地を回避する冬作物を栽培する,適地においては不耕起栽培を行なう。
●環境保全型農業の新しい定義
報告書は,環境保全型農業の新しい定義として,「農業の持つ物質循環機能を生かし,生産性との調和などに留意しつつ,土づくり等を通じて化学肥料,農薬の使用等による環境負荷の軽減,さらには農業が有する環境保全機能の向上に配慮した持続的な農業」とした。この定義は,環境負荷軽減に公益的機能の向上を加えたものであり,1997年制定の環境保全型農業憲章の定義を農林水産省としても追認したものといえる。
そして,報告書は,環境保全型農業が,水質の保全,大気の保全(地球温暖化の防止を含む),土壌の保全,生物多様性の保全,有機性資源の循環促進等を目的とし,消費者の安全かつ良質な農産物に対する需要に対応した農産物の供給に資するものであることを明確化することが必要であるとした。これらが新しい部分である。
今にして思えば,「明確化することが必要である」といった表現にとどめるだけでなく,これらの新しい部分を含めた環境保全型農業の定義を文章化しておいたほうがよかったと思える。例えば,「農業の持つ物質循環機能を生かし,生産性との調和などに留意しつつ,農業による環境負荷を軽減するとともに農業が有する環境保全機能の向上を図って,水質の保全,大気の保全(地球温暖化の防止を含む),土壌の保全,生物多様性の保全,有機性資源の循環促進等に貢献するとともに,消費者に安全かつ良質な農産物を供給する持続的な農業」を環境保全型農業と定義する文章も考えられる。
ところで,今回の報告書での環境保全型農業の定義には,「土づくり等」の文言が入っている。農業者が作物を環境保全型農業で生産しようとする際には,当然土づくりを実践するものの,これまでの定義では土づくりを特記していなかった。環境保全の観点から,化学肥料の過剰施用,化学合成農薬の不適切な散布,家畜ふん尿の不適切な処理と家畜ふん堆肥の過剰施用などが特に問題になっている。このため,土づくり,IPM(総合的病害虫・雑草管理),家畜ふん尿の処理利用が特に大切になっている。今回の今回の報告書の定義で土づくりを特記したのは,環境保全型農業の農林水産省の事務局が生産局の環境保全型農業対策室にあり,同室が土壌保全も担当していることを反映していよう。IPMや家畜ふん尿の処理利用などは「土づくり等」と一括表現されているものの,排除されているわけではなく,報告書はその同時実践の必要性を記している。
●環境保全型農業の推進を図る施策の展開方向
報告書は,全ての農業生産活動をより環境保全を重視したものに転換するには次の諸点を推進する必要があるとしている。
(1) 施策の定量的目標設定と計測可能な指標の設定
環境保全型農業を推進する施策を行政が展開するには,当該施策目的を的確に表す定量的な目標と指標を設定し,施策の効果を評価できるようにすることが必要である。これまではエコファーマー数を指標にしてきたが,より的確な指標を検討することが必要である。その際,環境改善効果の指標として,水の硝酸性窒素濃度,大気の二酸化炭素濃度などを採用しても,これらには様々な発生源が関与していて,当該施策に起因する部分を評価できない場合が少なくない。そうした場合には,これらと密接な相関を持っている堆肥,化学肥料,化学合成農薬の使用量などを指標とすること,必要な場合にはモデルなどを利用して水質・大気などへの影響を予測・推計すること,施肥基準やIPMの考え方に基づく防除指針に照らして化学肥料や農薬の使用量を評価することなどを検討する必要がある。
(2) 農地土壌に係るモニタリング体制等の強化
我が国ではこれまで,作物生産の観点から土壌のモニタリングを行なってきた。しかし,土壌は,炭素の貯留を通じた地球温暖化の防止,有機物分解などを通じた資源の循環利用,水・大気の浄化,生物多様性の保全など,地球環境や地域環境の保全に重要な役割を果たしている。こうした観点からも土壌の状態をモニタリングし,その結果を国民の共通財産として国が全国のデータをまとめて,ホームページなどで提供することが必要である。
(3) 技術指針の策定や技術指導等の促進
(3)-1 堆肥の施用拡大に向けた施策の展開
最近の堆肥には塩類濃度が高いものが多く,野菜・園芸農家が土づくり資材として利用するのが困難な場合が多い。このため,副資材の混合による堆肥の調整方法などについて畜産農家などに良質堆肥の製造方法を指導する一方,耕種農家の使いやすさを高めるために,土づくり資材として利用される堆肥については,肥料取締法に基づく肥料成分などに係る表示に加え,例えば電気伝導度や炭素含有量などに関する表示を加えること,肥料効果の強いペレット化堆肥については,制度上からも他の肥料成分との混合を容易に行なえるようにして,肥料成分をバランスよく含む堆肥に加工して流通・販売の促進を図ることが必要である。
(3)-2 環境保全型農業技術の体系化・マニュアル化等の推進
局所施肥や堆肥施用などによる化学肥料の低減,IPM の考え方に即した農薬の低減,適切な作付体系の評価に基づいた多毛作や輪作,生物多様性の保全と農業への活用を目指した冬期湛水や,水稲の生育期間中に行われる中干しの延期,地球温暖化防止に役立つ有機物の施用と水管理の組合せなどについて,技術開発に加え,都道府県試験場・普及組織・農業者などとの連携の下に,技術の体系化と具体的なマニュアル化を推進して,普及拡大を図ることが必要である。
そして,土壌診断に基づく適正施肥や,IPM の考え方に基づく防除などを推進するために,普及組織による指導体制を強化するだけでなく,土壌診断などに関する研修や資格制度の見直し・充実などを通じて,民間指導者の人材(普及組織や病害虫防除所などの職員OB,農業者など)の育成・確保を図ることが必要である。さらに,環境保全型農業技術に関する情報サイトを立ち上げ,IPM に関する情報などを含め,情報の一元的発信に努めることが必要である。この際,環境保全型農業技術については,農業者などが主体となって開発された技術も多いことから,農業者などの協力を得ながら進めることが重要である。
(3)-3 より効果的に環境保全型農業を推進していくための基準等の作成
上記の「●今後の土壌管理のあり方」に記した,有機物の施用,土壌診断に基づく適正な施肥,的確な耕耘,土壌改良資材の施用,多毛作・輪作,土壌侵食防止のための土壌管理について,農業者が実践できる具体的な指針を作成することが必要である。
その際,特に,(a) 一部自治体で行われている総窒素施用量や堆肥施用量の上限設定の取組を全国的に広げていくこと,(b) 環境への負荷軽減や資材費低減の観点から,水田についても土壌中の可給態リン酸含有量の上限値を検討すること,(c) 堆肥等有機物を施用した場合の減肥指導を徹底すること,(d) 地球温暖化防止への貢献などの観点からの堆肥施用基準の設定などに取り組むことが必要である。そして,エコファーマーの認定にあたっても,土壌管理指針を活用するように指導することが適当である。
(4) 農業者の取組を支える施策の充実
(4)-1 適正な価格での取引を推進するための表示・ブランド化等の推進
環境保全型農業の取組によって生産された農産物については,そのことを表示して,消費者,量販店,流通事業者などに対して,地球温暖化防止への貢献など環境保全への貢献を啓発し,消費者などの理解を得て,コストを踏まえた適切な価格で取引できるようにすることが必要である。
(4)-2 環境保全型農業に取り組む農業者に対する支援
これまでに農林水産省は,環境保全型農業を推進するために,ハード面では,堆肥の調製・保管施設,堆肥ペレット化装置,マニュアスプレッダー,土壌分析施設などの整備,土壌・土層改良等を推進してきた。また,ソフト面では2007年度から,農地・水・環境保全向上対策のうち,先進的な営農活動を一定のまとまりを持った地域で行なう取組について支援を開始した(環境保全型農業レポート.No.54 対象範囲の狭い農地・水・環境保全向上対策)。
今後,地球温暖化防止や生物多様性保全などを目的にした新たな施策が考えられる。しかし,そのための耕畜連携による家畜ふん堆肥の施用,炭素貯留に資する不耕起栽培,生物の生息環境の保全に資する冬期湛水などの取組については,汎用性のある技術として確立されていないものも多いことから,モデル地区への支援から始めるのが適当である。そして,今後我が国において,地球環境の保全・向上の観点から収益の減少を伴う土壌管理に対する支援を本格化するには,
・土壌の炭素貯留機能等公益的な機能に関する科学的な知見の一層の集積
・土壌の有する多様な公益的機能に関する国民の理解の醸成
・農家が自らの営農活動として行なうべき取組と,社会が一定の負担を行ないながら推進していくべき取組との境界(農家と社会との責任分界点)の整理が不可欠である。
(4)-3 農業環境規範の具体化を通じた普及の促進
今後,農業補助事業に参加するのに農業環境規範の遵守(クロス・コンプライアンス)を強化することが必要になる。その際,農業者による環境保全的行為の着実かつ適切な実践を確保していくため,営農上の具体的な注意点や生産基準などを明記して,農業環境規範の具体化を行なっていくこと,農業環境規範の各項目の取組状況を検証して,その取組レベルを引き上げていくことの検討が必要である(環境保全型農業レポート.No.12.農業生産活動規範とは,No.81.農林水産省が基礎GAPを公表)。また,補助事業を活用しない農業者もいることから,農業環境規範と食の安全の確保に係る記帳運動との一体的な普及に努めるなど,普及方策についても検討を行なうことが必要である。
(5) 環境保全型農業に対する国民の理解の増進
環境保全型農業について農業者と消費者双方の意識啓発を図ることが必要である。その際,国は科学的知見に基づく情報の入手が容易となるよう,ホームページなどを通じて営農活動が水質,大気等に及ぼす影響などに関する各種情報の公開に積極的に取り組むことが必要である。