●硝酸・亜硝酸の害作用
3か月未満の生まれたての乳児は,亜硝酸によってヘモグロビンが酸素を運搬できないメトヘモグロビンに酸化されて酸欠となり,ひどい場合には顔色が青くなって死に至るメトヘモグロビン血症になりやすいとされている。その理由として,乳児ヘモグロビンの60〜80%は亜硝酸に酸化されたメトヘモグロビンになりやすい胎児性のヘモグロビンが多い上に,乳児にはメトヘモグロビンをヘモグロビンに還元する酵素がない。さらに,胃のpHが高くて,細菌が定着して硝酸を亜硝酸に変えるなどのために,特に乳児は硝酸の影響を受けやすいとされている。このため,国際的に法律で飲料水の硝酸濃度が規制されており,EUは一部野菜の硝酸濃度を法的に規制している(環境保全型農業レポート.No.51「イギリスの葉菜類の硝酸含量調査結果」)。
また,硝酸から体内で生成された亜硝酸は,アミンやアミドなどと反応してN-ニトロソ化合物を生ずる。様々なN-ニトロソ化合物はガン発生,生殖機能の低下,糖尿病の助長を起こす潜在物質であるため,硝酸や亜硝酸とこれらの疾病との関係も疑われている。
食品の有害物質の規制については,WHO(世界保健機関)とFAO(国連食糧農業機関)の合同委員会であるコーデックス委員会が国際的なガイドラインを作成している。その際,国際的に合意された文献データの整理を論拠にすることが必要になるが,それをWHOとFAO合同の食品添加物に関する専門家委員会(JEFCA: Joint FAO/WHO Expert Committee on Food Additives)が行っており,亜硝酸および硝酸に関して文献を整理したものもJEFCAのホームページから入手できる(JECFA Monographs. 844. Nitrite (WHO Food Additives Series 35) およびJECFA Monographs. 845. Nitrate (WHO Food Additives Series 35))。
●硝酸の害作用は現実的に問題にならないとの主張
しかし,フランスの医学者のリロンデル親子は人間では硝酸の害作用は問題にならないと主張して,1996年に単行本を発行した。その英語版が2002年に出され,2006年12月にリロンデル親子の英語版が日本語に翻訳されて出版された(J.リロンデル,J-L.リロンデル著,越野正義訳「硝酸塩は本当に危険か〜崩れた有害仮説と真実」.農文協)。訳本の出版に先立ち,訳者が肥料協会新聞部の機関誌である「季刊肥料」102号(2006)でリロンデル親子の主張をかなり詳しく紹介している。リロンデル親子の主張の概要は下記のとおりである。
1)これまでの症例を吟味してみると,乳児にメトヘモグロビン血症が生じたのは,細菌に汚染された井戸水を用いた場合と,調理した離乳食のニンジンスープを室内に放置してスープに細菌が増殖した場合だけで,乳児が摂取する前に細菌によって硝酸から多量の亜硝酸が生成されていたケースに限定されている。
2)乳児では胃のpHが高く,細菌が定着して硝酸を亜硝酸に変えるといわれているが,pHの高い期間は数時間に過ぎず,直ぐに成人並みの低いpHに低下して細菌レベルも激減する。
3)口内の細菌によって硝酸が亜硝酸に変えられるが,その量はメトヘモグロビン血症を起こすほどの量ではない。
4)摂食した硝酸の大部分は小腸上部で吸収され,血液に溶けて,腎臓から尿に排出される。
5)小腸で吸収された硝酸の一部は血液で運ばれて唾液とともに口内に分泌される。
6)吸収された硝酸の一部は大腸に分泌されて細菌の作用を受けるが,そこでメトヘモグロビン血症を起こすほどの亜硝酸は生成されない。
7)体内においてアミノ酸の代謝によって生じた一酸化窒素(NO)から硝酸と副産物の亜硝酸が生成されているが,健康な人間では問題になることはない。
8)しかし,乳児が感染性腸炎にかかっていると,一酸化窒素の生成量が急増してメトヘモグロビン血症になりやすい。
9)かつて硝酸は薬としてかなりの量が服用されていたが,当時害作用が出たという記録はない。
つまり,細菌汚染のない飲料水を使用し,調理した離乳食中で細菌が繁殖してないなら,感染性腸炎にかかっている場合を除き,乳児がメトヘモグロビン血症になることはないと主張している。
●誌上討論
アメリカから発行されている環境の健康影響に関する学術雑誌に,上記の著者であるフランスのリロンデル(子息),アメリカのアベリ,イギリスのアディスコットが,アメリカのウォードらがまとめた飲料水中の硝酸の健康影響に関する論文(Ward M.H, deKok T.M, Levallois P, Brender J, Gulis G, Nolan B.T, et al. (2005) Workgroup report: drinking-water nitrate and health−recent findings and research needs. Environmental Health Perspectives. 113:1607-1614)に対する質問と,それに対するウォードらの反論とが同じ号に掲載された(Environmental Health Perspectives (2006) 114(8) p.A458-A461 )。
(1)リロンデルらの批判
リロンデルらの主張は次のようなものである。
ウォードらもこれまでの文献を吟味した結果,硝酸がメトヘモグロビン血症や発ガンなどに対して有害とした研究はわずかであり,それも症状が軽微であり,影響なしとの例も多かったことを認めた。そして,ウォードらも摂取した硝酸が健康リスクを高めるとの明確な結論をえられなかった。それにもかかわらず,ウォードらが飲料水の硝酸基準を変更する前にリスクの可能性を徹底的に吟味する必要があると結論したのは理解できない。
そして,リロンデルらは特に次の2点を指摘した。
第一は,アメリカのEPA(環境保護庁)やWHOが飲料水の硝酸性窒素の最大許容レベルを10 mg/L(硝酸塩(NO3)で45 mg/L)に規定しているが,野菜の硝酸濃度はこれよりも通常50倍以上も高い。しかも,人間の硝酸摂取量の大部分は水からでなく,野菜に由来している。それなのにこうした硝酸を多く含む野菜が健康に良いのはなぜか。亜硝酸から発ガン性のN-ニトロソ化合物が生成するのをビタミンCが阻害するといっても,飲料水の硝酸性窒素濃度が10〜20 mg/Lで発ガン性の危険を持つというのなら,野菜の摂取は健康に悪いことになってしまい,野菜が健康に良いという事実に反してしまう。
第二は,アメリカが飲料水の硝酸性窒素濃度を10 mg/L以下にしたのは,飲料水の硝酸性窒素濃度が10〜20 mg/Lでメトヘモグロビン発症した5例を論拠にしたとされている。しかし,硝酸濃度がその場で測定されていたとは限らず,発生の1か月も後に測定された例もあり,硝酸性窒素濃度と発症との関係が明確に証明されているとはいえない。最近では(農村部での井戸水の硝酸濃度は下がっていないが,細菌汚染が減って)メトヘモグロビン血症の発症例は激減しており,硝酸の有益作用すら報告されている。
飲料水の硝酸性窒素の最大許容濃度を10 mg/L以下とする基準には明確な論拠がない。おかげで基準を守るために莫大な社会コストを要している。真偽が明確でない上記の5例を含めても,飲料水の硝酸性窒素濃度が20 mg/L以上でメトヘモグロビン血症が生じた事例はない。飲料水の硝酸性窒素濃度が20 mg/L以上でメトヘモグロビン血症が生ずるとは思えないが,基準値が必要なら,飲料水の硝酸性窒素の最大許容濃度を20 mg/Lに引き上げても,それでメトヘモグロビン血症が起きるとは思えない。基準値を引き上げることによって社会コストを大幅に減らすことができ,貧しい農村部に対する経済的メリットが大きく,健康リスクが高まることはない。
(2)ウォードらの反論
ウォードらはメトヘモグロビン血症の基準値について次の反論を行っている。
通常は基準を設定する際には,疾病を起こさない最大濃度に安全係数(しばしば1/500)を乗じている。飲料水の硝酸濃度基準は,疾病を起こさないと観察された最大濃度そのものを使用しており,安全係数を乗じていない。したがって,基準値はリロンデルらのいうように過剰保護ではない。ただし,批判された論文(Ward et.al. 2005)でも飲料水中の硝酸とメトヘモグロビン血症発症との関係についてはさらなる研究が必要なことを強調したと記述した。
リロンデルらは,胃の亜硝酸濃度が低く,亜硝酸が体内で問題となるほどのニトロソ化合物を生じていないとしたが,ウォードらはこの点に強く反対している。基準上限値の硝酸性窒素10 mg/L(バックグランドレベルは1 mg/L未満)を飲料水で摂取したときのリスクを適切に評価するには,きちんとデザインした研究が必要である。症例検討グループに対して,基準値の水とバックグランドの水を与えながら,食事と水の硝酸,ニトロソ化反応阻害剤(ビタミンC,ポリフェノールなど),ニトロソ化反応の前駆体(赤肉,ニトロソ化反応を起こしうる薬剤など),ニトロソ化反応を増加させる医学的症状(炎症性下痢など)などの情報を,時系列を追って収集しつつ,N-ニトロソ化合物の生成量を測定して検討することが必要である。そうした2つの研究によって,基準値以下の飲料水の硝酸でも疾病リスクが有意に高まることが認められていることを既に指摘した(Ward, 2005)。一つは,赤肉を摂取するかビタミンCの摂取量が少ないと,飲料水中の硝酸塩レベルが高いほど結腸ガンのリスクが高まった。もう一つの研究では,誕生した子供に神経管欠陥が生じていたのは,母親が飲料水から硝酸を多く摂取し,かつ,ニトロソ化反応を起こしやすい薬剤を服用していたことと関係していた。
ウォードらはこうした研究があることを論拠に,リロンデルらの飲料水の硝酸基準値には何も論拠がないという批判に反論している。
●さて,どっちが正しいの?
リロンデル親子の本は1996年に出版されており,国際機関も承知しているはずだが,その主張を採用していない。例えば,上記のJECFAの2つのモノグラフでは1995年までの論文を引用しているが,リロンデルらの1994年までに発表した研究論文を引用していない。
土壌肥料学者は土壌や自然界での硝酸の動態や植物や微生物による硝酸の代謝については詳しいが,人間に対する硝酸の安全性そのものについては医学者ではないので,専門家ではない。今後とも国際機関での決定を注視してゆくことが必要である。
しかし,上記の論争で,体内におけるN-ニトロソ化合物の生成が野菜や果実に存在する抗酸化物質の摂取によって阻害されることが注目される。
これまでの土壌肥料学の研究によって,硝酸濃度の高い野菜ではビタミンC濃度が低下することが広く認められている。例えば,環境保全型農業レポート.No.53「朝取りホウレンソウは硝酸含量が高い」にも,そうしたデータが示されている。硝酸濃度が低く,それなりのレベルのビタミンCを含む野菜なら,野菜の硝酸による害作用は相殺されるのだろう。しかし,窒素の多量投入で硝酸濃度が高く,しかもビタミンC濃度の低下した野菜でも,硝酸の害作用が相殺されるのだろうか。この点に疑問を感ずる。
亜硝酸は,ビタミンCなどの抗酸化物質によって体内で一酸化窒素(NO)に変えられる。リロンデル親子の本には,一酸化窒素は数秒で細胞間を伝達されて,血管,各種臓器,脳,免疫系,神経系,筋肉などの働きを調節する物質として機能している重要な生体制御物質であって,有害物質ではないことを強調している。しかし,他方で,乳児が感染性腸炎にかかっていると,一酸化窒素の生成量が急増してメトヘモグロビン血症になりやすいとも記載している。硝酸濃度の野菜を多量に摂取して,一酸化窒素が通常のレベルよりも多く生成されたとしても,異常は起きないのかも疑問である。
医学の専門家ではないので,これらの疑問への回答が国際機関から提示されるのを待ちたい。
●環境問題との関連
リロンデルらの主張にしたがって野菜や水道水の硝酸基準は仮に間違えているとしても,窒素を多投すると,水系の富栄養化,土壌からの強力な温室効果ガスである亜酸化窒素(N2O)の発生,自然生態系の窒素レベルが高まることによる自然植生の変化など,環境悪化を助長することになる。
●国際的コンセンサスを待つべきだ
リロンデル親子の原著のタイトルを直訳すると,「硝酸塩と人間〜有毒,無毒それとも有益なのか」なのだが,訳本では副題が「崩れた有害仮説と真実」され,有害説が完全に崩れて,硝酸の毒性は全く問題にならないとの印象を与える。肥料関係者のなかには「季刊肥料」の記事や訳本を読んで,飲料水や野菜の硝酸が有害だとの説は誤っていたとの見解に立って,施肥をむやみに減らす必要はないと主張する方もおられる。確かに本書の訳本は硝酸問題について科学的争点があることを紹介し,我々がこの問題について注視する必要があることに気づかせてくれた。しかし,専門家の間でまだ論争があり,国際機関で決着のついていない段階で,硝酸が無毒で,むしろ有益で,現在の規制は虚構であるとまで言い切るのは問題である。
国際的コンセンサスがえられない段階で,硝酸含量の高い野菜は安全ですといって,消費者は納得するだろうか。硝酸が低くビタミンCの多い野菜と,硝酸が多くビタミンCの少ない野菜を比べたとき,消費者はどちらが内部品質の良い野菜と判断するだろうか。硝酸濃度が高い野菜は味が良いのかというと,苦くなるとの話も聞く。硝酸が増えれば一般に糖分が減るので,それもうなずける。
高品質で安全な野菜を生産し,かつ環境を保全する農業こそが消費者に支持される農業のはずである。