● 拡大が停滞している世界の有機農地面積
世界の有機農業に関するデータを毎年刊行している”The World of Organic Agriculture Statistics and Emerging Trends 2019” Edited by H. Willer and J. Lernnoud. FiBL and IFOAM. によると,世界の認証された有機農地面積は,1999年に1100万haだったが,2017年には6980万haに6.3倍に増加したものの,2017年でも世界の農地総面積の1.4%を占めるだけである。
有機農業を積極的に推進する人達にとっては,この程度の総有機農地面積では微々たるもので,何とか大幅に拡大したいと願っている。
こうした視点から,オックスフォード大学の社会・文化人類研究所を経て,現在オーストラリアのタスマニア大学の農地・食料学部のポール(John PAULL)准教授が,下記の論文で世界の有機農業面積を拡大する4つの戦略提起している。その概要を紹介する.
なお,著者のポールは,当該論文の中で,冒頭に記した”The World of Organic Agriculture Statistics and Emerging Trends” を引用して有機農業面積などを記している。しかし,その引用には誤りが1つあった。すなわち,当該統計書は毎年次出版されていて,当該年の号に収録されているのは2年前の年次のものである。つまり,2017年号には2015年のデータが収録されている。それなのに,ポールは,2017年号に記載されているデータを2017年のデータとしている。以下の記述では,ポールの記載でなく,2019年号からデータの実際の年次の値を記載することにする。
また,ポールは,シュタイナーのバイオダイナミック農業の歴史やその後の発展についても多くの論文を出している。
● 有機農業面積拡大の基本:1つずつの農場全体を有機農業化
有機農業の出発点の1つは,オーストリアの霊的哲学者のルドルフ・シュタイナー(1861-1925年)が,人智学に基づいた農業の考え方を1924年に農業講座で講義し,その考えを聴講した人智学の弟子達が実験で確認して,バイオダイナミック農法が開始されたことなどを,環境保全型農業レポート「No.263 有機農業は当初,生命哲学や自然観の上に創られた」および「No.289 バイオダイナミック農法の生産基準」に紹介した。
このころから現在まで,有機農業が拡大されてゆく基本は,農場主が農場の一部で有機農業を始めて,やがて農場全体を有機農業化するやり方である。こうしたやり方を「1つの農場を一斉に」’One farm at a time’とポールは呼んでいる。しかしこのやり方では、有機農地面積が世界の農地総面積の1.4%を占めているにすぎない。この現状を突破して有機農地面積の拡大を加速するやり方として,ポールは下記を例示しつつ提案している。
● 州全体を有機農業化:インドのシッキム州
ヒマラヤのネパールとブータンの間に食い込んだ位置に,インドで一番北側のシッキム州が存在している(図1)。シッキム州は2003年に州の農業を全て有機農業化することを開始し,2016年に達成した。
2003年にシッキム州のチャムリング首相は,シッキム州を全て有機にすることをゴールにした,「シッキムは有機農業を目指す」“Going for Organic Farming in Sikkim”との実行計画を作成した。そのポイントは,(1) 農場における有機きゅう肥製造の促進,(2)有機農業のための農業者などの能力形成,(3)バイオ肥料製造ユニットの設置,(4)土壌診断ラボの設置であった。そして,計画の実施を監督する,シッキム州有機農業理事会を設立した。
「バイオ村」(”bio villages”)を宣言した100の村で実行し始め,農業者は有機栽培のやり方のトレーニングを受けた。バイオ村の成功は,シッキム村の理念を証明し,参入を希望する他の農業者を引き付けた。2009年までに396のバイオ村ができた。「シッキム2010年有機農業目標」に基づいて,農業者に種子,きゅう肥やトレーニングが供与された。2014年に,「シッキム州農業・園芸投入物および家畜飼料規制法」’the Sikkim Agricultural, Horticultural Input and Livestock Feed Regulatory Act’で,合成の肥料と農薬の使用が禁止された。2015年12月31日までに,農地7.5万haが有機認証された。インドのモディ首相は2016年1月に,シッキムは『インドの最初の有機農業州』であると宣言し,『シッキムは歴史となる道を作り,自然には養生と保護が必要なことを全世界に知らしめた』と述べた。
農業者の1人は転換の際の経験として,『2003年以降,作物単収は,化学肥料を使っていたときよりも2ないし3年間は非常に低かった。雌ウシの糞尿とミミズ堆肥(バーミコンポスト:ミミズを使って有機物を分解して作った堆肥)を使用し始めてから微生物が徐々に増えて,現在,野菜や作物の収量は,化学資材を使用していたときの2倍になっている。・・・シッキムの若者は,有機農業を流行の職業と歓迎している。』と述べている。
シッキム州は現在,インドの有機農産物124万トン中の8万トンの6.5%を生産している。なかでも6つの有機生産物(カルダモン(複数の植物の種子から作られる香辛料),ショウガ,ウコン,ソバ,茶,シンピジウム)が輸出用の主産物となっている。現在は有機ツーリズムの可能性もある。
インドの複数の州が,シッキム州の成功に対して、それを真似る憧れをいだいている。ゴア,カーナタカ,マディヤ・プラデーシュ,マハラシュトラ,メガラヤ,ミゾラム,ラジャスタン,タミル・ナードゥ,ウッタルプラデシ,ウッタラーカンドの各州がそうである。
● 国全体を有機農業化:ブータン
ブータンは憲法に幸福を国の価値と記している。第4代ブータン国王のジグミ・シンゲ・ワンチュク(2006年からは第5代国王のジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク)は,1972年にブータン人の優れた格言として,「国民総生産よりも国民総幸福のほうがもっと大切である」と述べた。
「2013年デリー持続可能な開発サミット」で,ブータンの当時の農林大臣のDr.ペマ・ジャムツォは,ブータンが100%有機になる世界で最初の国になる願望を確認した。ジャムツォ大臣は,『我が国は山岳地形である。我々が化学資材を使用すれば,それは使用した場所に留まっておらず,水や植物に影響を与える。我々は全ての環境を考えることが必要だといいたい。我々の農業の仕方の大部分は伝統的農法であり,我々の農業の大部分は有機に他ならない。』と述べている。そして,彼は追加して,『我々は仏教徒でもあり,自然と調和して生きていると信じている。動物は生きる権利をもち,我々は植物が幸福で,昆虫が幸福であると見たいのである。』
また,元首相のジグメ・ティンレーは,『農業は全ての文明の基礎であり,唯一の持続可能な食料生産の方策である有機農業が,あらゆる新規の開発パラダイムのなかで最重要な推進力とならなければならない』と記している。
しかし,有機農業は生き方としてブータン人に適しており,ブータン農業に取り込むことができ,助長することができるといいつつも,『転換で最も大きな問題は,伝統的な農業化学に基づいた教育に従ってトレーニングを受けた研究者や普及スタッフの知的精神の転換が問題である。』との指摘を行なった者も存在した。
ブータンで,は為政者の理念に基づいてトップダウンで有機農業の推進が図られている。それでも,”The World of Organic Agriculture Statistics and Emerging Trends 2019” Edited by H. Willer and J. Lernnoud による,2017年における有機農地面積は6,632 haで,全農地の1.3%にすぎない。同統計では,ブータンの有機農地面積は2010年には記載されてなく,2011年に6,150 haで,その後,今日まで面積がろくに伸びていない。国が強力に推進している割合には進展が遅い。ブータンがその大胆な野望の100%有機を達成できるかは,今後,見つめていく必要がある
● 特定の作物を集中的に有機化:ドミニカ共和の有機バナナ
EUは,貧しい開発途上国の開発を支援する方策の1つとして,アフリカ,カリブ海諸国,太平洋諸島のバナナ産出国に「バナナ随伴対策」(Banana Accompanying Measures)によって資金援助を行なってバナナ生産を促進し,生産されたバナナを輸入している。
世界のバナナの年間生産量は1億2560万トンで,カリブ海のドミニカ共和国は世界のバナナ生産の1%未満を占めるだけのマイナー生産国にすぎない。しかしドミニカ共和国はEUの資金を得て,有機バナナの生産を拡大し,有機認証面積は163,936 ha,全農地の7.0%を占める。そして,世界の有機バナナの55%を生産するまでになっている。2015年には24万トンを超える有機バナナがドミニカ共和国から輸出され,その大部分の95%がEUに輸出された。
このドミニカ共和国の事例は,EUの資金支援を活用して,特定の作物を有機に転換して,世界マーケットで優位に立てる機会が与えられ,それによって,認証,輸出,生産物の集荷,知識の共有や協調のために必要な集団化を作って,マーケット機会を農業者に提供して便益をもたらすことができた好事例である
● 島全体を有機農業化
太平洋の2つの島,フィジーのシシア諸島(3,400 ha)とキリバス環礁のアベイアン(1,750 ha)は,必要最低限の農業しか行なっていない。しかし,ココナッツ,バナナ,パンノキやパパイヤなどを生産できる条件を有しており,この2つの島は,生鮮または加工生産物としてこれらの有機の輸出品の機会を活用して,有機に100%転換するとの意向を宣言している。
この他にも,オーストラリアのタスマニア島,フォークランド諸島(マルビナス諸島)も島全体の有機農業化を計画したが,この両者はあまり発展していない
● おわりに
ここに示した,インドのシッキム州,ブータン国,ドミニカ共和国のバナナ,太平洋の島などの全体を有機農業化する事例で,成功しているのはシッキム州とドミニカ共和国だけで,他はブータンのように理念から有機化すべきという上意伝達や,他の島嶼の事例は有機化の願望を宣言しただけである。シッキム州やドミニカ共和国の例では,生産した有機農産物を地元民が購入するのでなく,外国や国内の富裕層に販売し,生産した農業者は増えた所得によって,他の州や国から慣行農業による農産物を購入しているのであろう。それによって,生産した農業者はより豊かな食生活を送れるようになっていよう。
有機農業を行なって自分らが食する農産物を生産せず,自分らは慣行農産物を食するとしても,慣行農産物の生産向上は化学資材の施用量増加で容易に達成でき,さほど慣行農地面積の拡大は不要だろう。確かにそれでも有機農地の拡大を実現できる。しかし,そうした有機農地拡大は有機農業信奉者にとって正しいのであろうか。