No.265 アメリカにおける有機農業発展の歴史の概要

●はじめに

環境保全型農業レポート「No.263 有機農業は当初,生命哲学や自然観の上に創られた」で,有機農業のヨーロッパにおける創設者の考え方の概要を紹介した。今回はそれに続き,アメリカでの有機農業の発展の概要を,次の文献をベースにして紹介する。

(1) Treadwell, D.D., D.E. McKinney and N.G. Creamer (2003) From philosophy to science: a brief history of organic horticulture in the Unites States. HortScience, 38(5): 1009-1014.

(2) Heckman, J. (2006) A history of organic farming: Transitions from Sir Albert Howard’s War in the Soil to USDA National Organic Program. Renewable Agriculture and Food Systems: 21(3); 143-150.

(3) Madden, J.P. 1998. The early years of the LISA, SARE, and ACE programs. Reflections by the foundation director. Jan. 2003. Western Reg.

●ハワードについての補足

アメリカの初期の有機農業に,最も強く影響を与えたのはハワードであった。最初に,ハワードについて上記文献(2)を踏まえて補足を行なう。

ハワード(1873-1947年)はイギリスのケンブリッジ大学を卒業した菌類学者で,イギリスの農科大学で教鞭をとった後,1905-1931年にインドのインドール地方に創設された研究所(植物産業研究所Institute of Plant Industry)の所長を勤めながら,如何に健全に作物を栽培するかの研究を行なった。環境保全型農業レポートNo.263に紹介した他の有機農業のパイオニアよりは農学の技術的な専門的知識を有し,他の人達のように自然観優先ではなく,具体的実験に基づいて,有機農業に必要な概念や技術を構築した。なお,ハワードは,シュタイナーのバイオダイナミック農業について徹底的に懐疑的であった。

かつて植物栄養について,ドイツのテーア (Albrect Daniel Thaer: 1752-1828年)の提唱した,植物は腐植を吸収して生育するとした「腐植説」が流布していた。腐植説はその後,1840年に出されたリービッヒの「無機栄養説」(植物は養分を無機物質からだけ獲得する)によって否定された。無機栄養説は、化学肥料工業の勃興とそれによる世界の作物生産量の飛躍的向上に貢献した。ハワードは1940年に刊行した著書(”The Soil and Health. A Study of Organic Agriculture”, The Devin-Adair Company,New York, USA:『ハワードの有機農業.上下』横井利直・江川友治・蜷木翠・松崎敏英訳.1987年.農文協)で,「根毛は土の粒子の間や周辺に広がっている薄い水の膜−この膜は土壌溶液として知られている−の中に溶けている物質を探しあてて,それを植物体中の蒸散流の中に送り込む。その中に溶けている物質は,ガス(主として二酸化炭素と酸素)と,無機塩類として知られている硝酸塩・カリウムおよび燐を含む化合物など一連の物質である。これらの物質はすべて有機物の分解や土壌の鉱物質の破壊によって生じたものである。」(上記訳本上巻46頁)。このようにハワードは,植物が無機養分を吸収して生育するという,リービッヒの主張の基本的部分を認めている。

しかし,植物根には菌根菌などの微生物が定着しており,菌根菌が合成した有機化合物も植物は吸収しているし,植物が合成した有機物が土壌に還元されて生じた腐植が分解されて,土壌に生育する植物,動物,微生物の養分源となり,様々な生物を育み,土壌の物理性を改善している。こうして腐植が土壌の健康とそこに生える植物の健康を支えている。それゆえ,ハワードは腐植の重要性を否定し無機塩だけで良いとするリービッヒの考えに猛反対した。

ハワードは有機物が土壌に還元されて腐植が蓄積することから,下水汚泥を含むあらゆる有機物の農地への還元の重要性を,「還元の法則」として主張した。しかし,無機栄養説が主張する化学肥料だけで良いとする立場からは,養分は化学肥料で施用するだけで植物は生育できるので,有機物還元は不要であり,有機物還元は,不要有機廃棄物の土壌投棄とみなされた。ハワードは土壌を健康にする有機物として,堆肥の製造方法の処方箋も作った。ここまでのハワードは,サーにも叙せられた優れた科学者であった。

しかし,その後,高齢化したハワードは化学肥料の全面排除という極端な立場にたった。そして,化学肥料の使用をたまには正当化して良いケースがあるとする彼の支持者とも対立するようになった。ただし,有機物施用だけでは不足する養分が生ずることもあるため,天然ミネラル源として,粉砕した岩石の使用は承認した。こうした晩年にハワードが立ち至った極端な立場から,彼はリービッヒと対立する思考を持ち,植物が菌根菌を介して有機態化合物を吸収し,無機養分を吸収しないかのような理解をしている,と誤解を受けているケースもある。過激な姿勢で無機栄養説を主張したリービッヒと,過激なまでに化学肥料を排除したハワードとによって,1940年から1978年まで,農学は有機と非有機の陣営に分かれて対立した(文献(1))

●「有機」という用語の創始者ウォルター・ノースボーン

ハワードは1940年に刊行した”An Agricultural Testament”(保田茂監訳,2003年.コモンズ)で,彼の目指す農業を「自然農業」”Nature’s farming”と呼んだ(文献(2))。

「有機」という用語は,イギリスのケントの貴族であったウォルター・ノースボーン(Walter Northbourne)の造語による(文献(1,2))。ノースボーンは彼の農場でバイオダイナミック農業を実践し,1940年に”Look to the Land”(『大地に目を向けて』)という本を刊行した。このなかで彼は,「有機」とは,「複雑だが,各部分が,生物のものと同様に,必要な相互関係を有する」という意味で,「有機的統一体‘organic whole’としての農場」という考えを提唱した。

●ハワードによって再評価されたキング

人口密度が低く農地資源が豊富なアメリカでは,開墾した新しい土地で農作物を育て,それまでの草地や林地時代に蓄積されていた土壌肥沃度が消耗したら,新しい土地に移動して新たに開墾することがなされ,土壌肥沃度を再生させながら持続的農業を行なう意識が低かった(文献(1))。

土壌科学者のキング(F.H. King: 1848-1911年)は,ウイスコンシン大学の教官からUSDA(アメリカ農務省)土壌保全局に移籍していたが,使い捨てのアメリカの農業のやり方に懐疑的になり,極東の伝統的農業のやり方を調べるために,土壌保全局を辞して,東アジアの伝統的農業のやり方を調査する旅に出た。その観察結果は1911年に, “Farmers of Forty Centuries or Permanent Agriculture in China, Korea and Japan”, The MacMillan Company, Madison, WI, USA, 441p.:杉本俊朗訳 (2009)『東アジア四千年の永続農業−中国・朝鮮・日本(上・下)』農文協) として出版した。しかし,この本が直ぐに読まれて大きな反響をえることはなかったようである。その後,土壌肥沃度を維持・再生するために,廃棄物を含めた有機物の土壌還元が大切だというハワードの主張が,キングの調べた東アジアの国々の農業によって裏付けられることから,ハワードによってキングが再評価された。

●第一次と第二次大戦の狭間の1920年代と1930年代の農業の化学化

ドイツは,第一次大戦直前に,ハーバー・ボッシュ法による大気中の窒素ガスからアンモニアを製造し,それを火薬原料の硝酸に酸化する工場を建設した。戦後,これらの工場は窒素肥料の原料製造用に転換され,欧米で窒素肥料の使用が普及していった。

第一次と第二次世界大戦の狭間の1920年代と1930年代は,イングランドやアメリカで農業が主力産業であった。この時代,農業生産性を向上させるために,政府の後押しで専作化が進められ,化学肥料,トラクタなどの使用によって,経験に富んだ農業者の数を減らしていった。

余談だが,1929年に始まった大恐慌に追い打ちをかけるように,1930年代のアメリカ中南部で,干ばつによって激しい風食が続き,農業が壊滅的打撃を受けた。地主は生産コストを削減するために,大型トラクタを導入して大量の小作人を解雇した。1940年に映画監督のジョンフォードが、スタインベックの小説『怒りの葡萄』をヘンリーフォンダを主役に映画化した。オクラホマで50年間40エーカー(約16 ha)の農地を小作していたジョード家が解雇されて,カリフォルニアに職を求めて移住してゆく。その際,農場管理人が「トラクタ1台あれば14世帯分の働きをする。」といっていたのが記憶に残っている。

この未曾有の大砂塵について,USDA (1938) Soils & Men. Yearbook of Agriculture 1938 (p.68-71) は,コムギの大産地の大平原地帯について,次のように記述している。

この地帯は平年の降雨が続いていれば順調であったが,1930年以降,頻繁に干ばつが襲い,穀物や牧草の生育も停止した。当時の大平原地帯では生産量を上げるために,家畜の飼養密度や作物選択を,好ましい気候と土壌条件のときに合わせていた。このため,干ばつで草が減ったときには多すぎる家畜が草を食い尽くし,また,風食に弱いコムギなどの作物を連作していたため,事態が一層悪化した。貯水池も干上がり,大砂塵が土を巻き上げて表土を吹き飛ばして農地を裸地状態にしてしまった。農業者は食いつなぐために,牛を手放した。大平原地帯の総計50万平方マイル(約1億3000万ha)の農地のうち,約半分は深刻な被害を受けた。そのほぼ半分の農地は,経営を立て直す余力のない小規模経営体のものであったため,小規模経営者や小作人が農地を捨てて大移住するに至った。こうした悲劇は,異常気象に加えて,異常気象の可能性を忘れた,誤った土地利用によって生じたのである。こうしたUSDAの指摘は,生態学的に優しい農業へのシフトへの必要性を示したものであった。

●1940〜78年の有機農業と非有機農業陣営の対極化とロデイルの役割

1940年代以降,特に第二次大戦後,石油化学製品としての化学肥料や化学農薬が普及して農業生産力が飛躍的に向上し,安価な農産物が大量に生産できるようになった。そして,石油化学関連産業はかなりの資金を大学での肥料や農薬の分野での研究に提供し,有機農業は無論,農業の生態学的研究については資金提供しなかった。この結果,化学肥料や農薬の理論と応用に関する研究が加速された。そして,大学の研究者の大部分は化学農業による食料増産こそが必要であって,有機農業を徹底的に批判した。こうして大学,USDAでは有機農業研究がほとんどなされなくなり,有機農業と非有機農業の支持者が激しく対立した(文献(1)(2))。

この時代,出版会社の経営者のロデイル(Jerome Rodale: 1898-1971年)は,ハワードの考えに感動し,1930年代後半にペンシルベニア州に農場を購入し,堆肥化と有機農業の実験を開始した。そして,1942年にロデイルは,ハワードを共同編集者とする雑誌”Organic Farming and Gardening”(「有機農業と園芸」)を刊行し,1945年の”Pay Dirt”(一楽照雄訳『有機農法−自然循環とよみがえる生命』1974年.農文協)など著書の刊行などによってアメリカに有機の概念を普及させ,アメリカにおける有機農業普及伝道師として機能した。そして,1947年にロデイル研究所を設立し,堆肥と化学肥料の影響の比較,有機など農業システムの長期試験を行なっている(文献(1)(2))。

●カーソンを契機にした環境保全運動の高まり

1962年,化学農薬の無差別使用を批判したカーソン(Rachel Carson)の”Silent Spring”(青樹簗一訳『生と死の妙薬』1964年.新潮社。のちに『沈黙の春』と改題)の刊行は,慣行農業の環境や,消費者の環境に対するマイナス影響について市民の懸念を喚起した。農薬工業界からは強烈に批判されたものの,カーソンは市民だけでなく,政策立案者から注目と支持をえた。そして,彼女の仕事は農薬規制についての調査を急がせ,「環境保護基金」”Environmental Defense Fund”(1967年開始:2013年の基金額は1億2000万ドル)と,環境保護庁( Environmental Protection Agency: EPA:1970年開始)の設置に貢献した。

●慣行農業への批判の高まりと有機農業運動の組織化

農業の化学化と機械化の一層の進展,ハイブリッド品種の導入,輸送システムの合理化によって,農場規模を拡大したスケールメリット追求の道が開かれ,農場の統合が活発に行われた。1940年から2000年までの70年間に,アメリカの農業者は700万人から200万人に減少した。そして,生活が難しくなった小規模な家族経営農場が,1950年代中頃から,生活のできるフェアな生産物価格を要求する農業者団体を組織し始めた。こうした家族農場に優しい視点が,有機農業を支持する力にもなった。

一方,有機農産物を求める消費者の要求に応えるために,分散した有機農業者をつなぎ,その生産物をマーケティングするのを支援し,消費者に有機農業に関する情報を提供するための組織として,1953年にテキサス州アトランタに「自然食品協会」”Natural Food Associates “が作られた。その後,多数の類似の組織が作られた。1971年に「メイン有機農業者・園芸者協会」”Maine Organic Farmers and Gardeners Association”,1973年に「カリフォルニア認証有機農業者」”California Certified Organic Farmers”が設立された。これらはそれぞれ東海岸と西海岸を中心に全米にわたる有機ネットワークになった。

こうして1970年から80年代に有機運動は団結し,慣行農業に対抗する戦力をもち,アメリカの食品システムにおいて明確な地位を占めた。これらの生産者協会は,農業者の説明責任をはたせるように,有機食品の統一基準を策定し,認証プログラムを創り出すべく努力した。

●連邦政府の関与

A.有機農業調査報告書

1970年代末まで,連邦政府は有機農業に公式に対処することはなかった。しかし,1970年代に有機生産物の販売額が増加し,有機農業の研究や教育に対する要求が顕著になったため,カーター政権の時代,バーグランド農務長官の下で,1979年にUSDAのなかにアメリカおよびヨーロッパにおける有機農業調査チームが組織された。アメリカの有機農場のケーススタディ,有機農業のリーダーへの聞き取り,国内外の有機農業に関する文献調査,ヨーロッパや日本の研究所への訪問調査を行なって,1980年に”Report and Recommendations on Organic Farming” (日本有機農業研究会訳「アメリカの有機農業〜実態報告と勧告」楽游書房.1982年)を公表した。これには今後,アメリカで有機農業を推進するための研究,普及,教育,施策に関する勧告が記されていた。

驚くことに,カーター政権に続く次期レーガン政権は1981年に報告書を拒絶し,1980年の勧告に基づいて設置され,すでに指名された者が着任していた「有機研究調整官」Organic Resources Coordinatorのポストを廃止した。報告書が出されても,大部分の科学者や政策立案者は,有機農業が実際的意味を持ちうるとは信じていないことは事実であった。そして,交代した農務長官は,有機農業の推進で5000万人のアメリカ人が飢えるとして,連邦政府が有機農業を推進することを拒否した(文献(2))。

このレーガン政権の有機農業拒否の姿勢から,有機農業支持者は有機農業重視の思いを込めて,「持続可能な農業」sustainable agricultureという用語を用いるようになった(文献(3))。有機農業をより広い概念に含めたことにより,有機農業への攻撃を弱めることはできたが,こうした用語の変更によって,USDAや州立大学による有機農業研究への対処を遅らせたとの批判もある(文献(1))。

因みに,1998年11月に気候変動枠組条約締約の京都議定書にクリントン大統領が署名したものの,アメリカ上院は批准を拒否し,2001年3月にブッシュ大統領は京都議定書から脱退し,クリントン前大統領の署名も撤回した。

B.代替農業

もう1つの重要な報告書は,議会から,農業現場での代替農業の実施に対してUSDAの農業政策は妥当か否かの調査を要請された政府会計局Government Accounting Office (GAO)がまとめた報告書,「代替農業」”Alternative Agriculture”である。報告は2部からなり, 1990年の実態報告と,それを踏まえた勧告である(因みに1989年に全米研究協議会National Academy Sciencesが「代替農業」”Alternative Agriculture”と題する報告書を刊行している(全米研究協議会リポート.久馬一剛ら監訳『代替農業−永続可能な農業を求めて』1992年.農文協)とは別物)。

GAOの報告書は,連邦政府として消費者や農業者が抱いている慣行農業の食品や環境に対する懸念を認め,持続可能な農業に向けて施策変更することを承認した。

C.LISAとSARE

全米研究協議会やGAOによる報告書の動きと併行して,1988年に持続可能な農業に関する研究,教育,普及に対する競争的交付金プログラム「低投入持続可能な農業」”Low-Input Sustainable Agriculture” (LISA) が1985年農業法の中でUSDAによって開始された。LISAは技術的問題を対象にしていたが,農業者やコミュニティの生活の質の向上などの社会・経済学的問題を含めて,1990年に,1990年農業法のなかで「持続可能な農業・教育」“Sustainable Agriculture and Education” (SARE)プログラムと名称変更された。

LISAやSAREプログラムの設置は,市民の代替農業に対する要求の高まりの結果であった。SAREプログラムは,アメリカの有機農業の研究と教育のための連邦資金の主たる資金源となっている。そして,応募課題の採択決定に農業者とNGOの代表が参加しており,有機農業に関する国の政策やプログラムの形成に,これらのグループが影響力を持っていることを反映している。

●全米での有機農業規則の公布

慣行農法の食品と環境の安全性に対する懸念が高まり,有機農業を連邦政府が支援する要求が高まった。これをさらに強化した2つのできごとがあった。

1つは,果実の成熟を促進し着色を向上させるために果樹に散布されていた,植物生育調節剤のダミノザイド(アメリカでの商品名はエイラーAla)問題であった。この薬剤は分解すると,発ガン性の非対称性ジメチルヒドラジンを生ずることが問題になった。しかし,環境保護庁が使用禁止にしなかったことを,1989年にマスメディアが報じ,消費者がその使用禁止を強く求めて大きな社会問題になった(環境保全型農業レポート「No.188 アメリカの有機と慣行のリンゴ生産」参照)。

もう1つの問題は,遺伝子組換え生物(GMO)食品の問題である。アメリカ政府はGMO食品にその旨のラベル表示を許可していない。有機農業規則では,有機生産でのGMO使用を禁止している。このため,GMO食品を嫌う消費者によって有機食品の購入が増加した。特に,細菌に遺伝子を組み込んで生産した牛成長ホルモン(recombinant bovine somatotropin: rbST)の忌避が,有機酪農製品への消費者需要を駆り立てていることは広く考えられている。かつてアメリカで,rbSTを注射して生産能力を上げた乳牛のミルクについて,その人間の健康への影響が具体的に報道されなかったことから,消費者もその安全性に疑念をもたず,ミルクの消費量も減少しなかったと報告された (Aldrich, L. and N. Blisard (1998) Consumer acceptance of biotechnology: Lessons from the rbST experience. Agricultural Information Bulletin No. 747-01 (6pp) )。しかし,GMOを嫌う消費者が多かったことが,有機酪農製品の販売額が1994〜99年の間に500倍超も増えたことの原因とされている(文献(1))。

1980年代後半以降,有機生産物の販売額が顕著に増加し,これにともなって認証基準制定に対する要求も高まり,国内で草の根運動として取組が始まった。1973年に設立された民間団体の「カリフォルニア認証有機農業者」California Certified Organic Farmersが有機農業基準を作ったが,これを契機に,やがて遅まきながら州政府の関与が始まり,1980年代後半にいろいろな州の農務部が認証プログラムを始めた。1997年には40の組織(12の州と28の民間組織)が認証業務を行なった(文献(1))。

多様な有機認証基準が施行されて生じた煩雑な事態を解消するために,連邦政府による国としての統一基準が求められた。1990年に,「アメリカ有機食品生産法」U.S. Organic Foods Production Act が「1990年農業法」の一部として採択された。同法の目的は,有機とラベル表示する食品の生産とハンドリングについての国の基準を策定するための枠組を定めたもので,具体的規則の名称は「全米有機プログラム」National Organic Program (NOP)とし,NOP事務局をUSDAに置き,具体的規則を設定するために,NOP事務局にアドバイスする「全米有機基準委員会」National Organic Standards Boardの設置を規定した。

有機農業関係のNGOには,USDAと一緒に仕事することに熱心なもののほかに,USDAの考え方そのものに懐疑的なものもあった。USDAは,1997年12月に最初のNOP案を公表した。それは,有機農業におけるGMO食品,下水汚泥や放射線照射の使用を認めるものであった。これらを含めることは,アメリカの有機産物を国内的にも国際的にも消費者から受け入れられないものにしてしまう。NOP案のパブリックコメントで,27万5000の反対コメントを受けた。これを踏まえて,USDAはこれらの問題についてのスタンスを変更した,より受け入れ可能な規則案を2000年3月に再公表し,2002年10月に発効した。連邦有機規則の文面は,National Organic Programのウェブサイトでみることができる。