●EUの共通農業政策
EUでは,農業は国民への食料供給や経済の基盤としてだけでなく,国土環境の保全でも重要な役割を果たしているとの認識が高い。しかし,農産物貿易の自由化促進によって,新大陸などからの安価な農産物の流入に対して何らかの農業保護政策を実施しないと,域内農業が大幅に縮小して,食料自給率やGDPの低下や,国土の荒廃が懸念されている。
EUの共通農業政策の歴史を振り返ってみると,1960年代前半から域内農業を保護・振興するために,共通農業政策が実施されてきている。当初は,戦後の食料難の記憶も新しかったこともあり,主要農産物について価格保護政策を実施し,安価な外国産農産物に高い関税を課して,保護価格と釣り合う価格で販売するようにした。その結果,農業者の生産意欲が刺激されて,食料難を急速に克服できた。当時の共通農業政策は,たくさん生産するほど,より多くの助成金をもらえる仕組みであったため,肥料,農薬,購入飼料などを多用して単収向上がなされ,やがて生産過剰が生じるとともに,環境汚染が深刻化した。また,大型機械導入による圃場拡大によって,伝統的農業で家畜囲いのために構築された石垣や生垣が撤去されて,景観や野生生物の生息地の破壊などが生じた。
2004年からはEU加盟国が大幅に増えたが,生産とリンクさせて助成金を支給する方式では,農業予算が無制限に拡大することが予測された。このため,助成金は生産と切り離して,2000年〜2002年に農家が得ていた所得助成金の平均額に基づいて定めた基準価格を参考にして所得助成金を農家に直接支払うことにした。ただし,直接支払を受給するには,農業生産や農地を含む環境の保全について既に法律で定められている様々な要件を遵守することに加え,農地を「良好な農業的および環境的状態」(GAEC: Good Agricultural and Environmental Conditions)で維持すること,食品の安全性,動物および植物の健全性ならびに動物福祉を確保することを,規定に準じて遵守することが義務となった(閣僚理事会規則 No 1782/2003) 。
現在の共通農業政策は2つの柱からなり,第1の柱は,直接所得助成と市場介入(関税,輸出補助金,購入による市場介入,生産枠の設定)とを合わせたもの,第2の柱は,構造政策と呼ばれる農業経営の競争力,環境と生活の質の向上を支援するための一連の施策とからなる(現在のEUの共通農業政策,特にその構造政策については,和泉真理氏が,JA総合研究所の「研究員レポート:EU の農業・農村・環境シリーズ」で紹介している。同研究員レポート:その1 )。そして,予算の約8割は第1の柱に当てられている(同その2 )。
第1の柱は基本的には農業生産を向上させる政策であり,農業生産の向上と環境保全の両立を目的にしている。他方,第2の柱は生産撤退も含めた環境保全で,いわゆる農業環境政策は第2の柱である。
●遵守すべき法的要件と「良好な農業的および環境的状態」
EUは,共通農業政策の第1の柱に基づく「直接支払規則」を2003年に全面改定した(Council Regulation (EC) No 1782/2003 of 29 September 2003 establishing common rules for direct support schemes under the common agricultural policy and establishing certain support schemes for farmers and amending Regulations (EEC) No 2019/93, (EC) No 1452/2001, (EC) No 1453/2001, (EC) No 1454/2001, (EC) 1868/94, (EC) No 1251/1999, (EC) No 1254/1999, (EC) No 1673/2000, (EEC) No 2358/71 and (EC) No 2529/2001) 。
「直接支払規則」は,第1の柱による直接支払を受けるのには,農業者が次を遵守することが不可欠なことを規定している。
(1) EUの法律またはEUの法律に基づいて制定されている加盟国の法律で規定されている,(a)環境保全,(b)人間,動物および植物の健康の保護,(c)動物福祉についての法的要件を遵守すること
(2) 全ての農地,特に生産目的に使用していない農地を良好な農業的および環境的状態に確保すること。
以下に,(1)と(2)の要件を概説する。
(1)法的要件の遵守
「直接支払規則」は,遵守すべき法的要件として,下記のEUの法律を指定している。
(a) 環境保全
「野鳥保全に関する指令」,「有害物質による地下水汚染の保護に関する指令」,「下水汚泥の農業利用による土壌等の環境保護に関する指令」,「水系の農業起源の硝酸による汚染からの保護に関する指令」,「野生動植物とその生息地の保全に関する指令」
(b) 人間,動物および植物の健康の保護
「動物の識別と登録に関する指令」,「牛の識別と登録についての細則を定める規則」,「牛の識別と登録ならびに牛肉とその製品の表示に関する規則」,「植物保護製品の市場流通に関する指令」,「ホルモン作用等を有する一部物質の家畜生産での使用禁止に関する指令」,「欧州食品安全庁の設置と食品安全性問題の手続きを定める法律の原則と要件を規定する規則」,「伝染性海綿状脳症の防除と撲滅のための規則」,「口蹄疫防除対策に関する指令」,「豚水疱秒の防除に関する指令」,「青舌病の防除に関する指令」
(c) 動物福祉
「子牛の最低飼養基準に関する指令」,「豚の最低飼養基準に関する指令」,「農業用動物の保護に関する指令」
(2)良好な農業的および環境的状態の遵守
「直接支払規則」は,同法律の付属書?の枠組に基づいて,全ての生産農地と生産目的に使用していない(セットアサイド)農地について,加盟国が,維持すべき「良好な農業的および環境的状態」の最低要件を法律で規定することを求めている。その際,加盟国は,国または地域レベルで,土壌や気候の条件,既存の農業システム,土地利用,作物輪作,農業方法,農場構造などの地域の特性を考慮に入れて,最低要件を規定することを求めている。これは健全な農業生産を維持するために,生産農地を維持し,耕作放棄を防止して,いつでも生産に復活できる状態で維持することを意図している。なお,農地を農業生産から完全に撤退する場合は,第2の柱の農業環境規則の対象になる。
そして,加盟国は2003年の面積支援申請を提出した期日(新加盟国は2004年5月1日)に永年草地であった農地を,原則として永年草地として維持することも求めている。これは,永年草地がプラスの環境効果を有しているので,既存の永年草地を維持し,その耕地への大量転換を回避するのを助長するためのものである。
農地の「良好な農業的および環境的状態」の基準として,(1)土壌生産力を失わせて周辺環境を汚染する土壌侵食の防止,(2)土壌の肥沃度,生物多様性,物理的性質の維持向上などに不可欠な土壌有機物レベルの維持・増進,(3)大型トラクタなどによる耕盤形成の回避(表1で土壌構造維持とあるのは耕盤形成阻止の意味),(4)野生生物の生息地としての機能を維持するためのいくつかの機能を指摘している(表1)。加盟国は,表1に指摘された項目は必須で,これらに加えて自国の状況に応じた項目を追加して,「良好な農業的および環境的状態」に関する基準を定めることが規定されている。
●イングランドの「良好な農業的および環境的状態」の基準
イングランドのGAEC(良好な農業的および環境的状態: Good Agricultural and environmental Conditions)の基準は,EUの指定した要件のうち,土壌侵食と土壌構造劣化(耕盤形成)の防止ならびに生息地の保全についてはかなりの力点を置いているものの,土壌有機物レベルの維持については,土壌侵食防止などの作業を行なえば確保できるためか,あまり力点を置いているようにはみえない。その代わりに,イングランドが重視している石垣や生垣の保全,遺跡の保護,経営農地内の道路へのアクセス(通行権)などを追加している。
イングランドの基準は,年次によって変更されており,当初は全体で18の基準があったが,現在では4つの基準が1つに統合されて,15の基準となっており,2010年は概略下記のとおりである。
1.GAEC 1 土壌保護チェック
(1) 土壌保護チェック
土壌構造と土壌有機物含量を維持し,土壌の侵食と圧密および景観特性の損傷を防止することを目的とする。共有地を除く,1 ha以上の農地を有する農業者が対象。
所定フォーマットの表に記載する形で,下記項目について毎年12月末日までに調査して作成する。 (a)農場の概要,(b)土壌リスク記録(農場の土壌に生じているまたは可能性のある土壌問題(圧密,水食,家畜によるぬかるみ,低土壌有機物,冠水,風食など)のタイプを確認し,土壌劣化リスクの程度(大中小)を評価する),(c)土壌管理プラン(作物タイプ別に上記問題の防止ないし修復のための対策を選定する)。後刻,検査時に係官から求められた際には,その記帳記録を提示する。
(2) 冠水圃場への出入
圃場を農業的および環境的に良好な状態に維持するには,冠水圃場(飽水圃場を含む)へは出入りしないことが原則。どうしても入らなければならない場合には,出入りした圃場番号,期日,作業内容,理由,生じた損傷の修復作業(最初の出入りから12か月以内に修復作業を行なう)等を所定の様式の表に記入する。
(3) 収穫後の圃場管理
油糧作物,マメ類,穀物をコンバインやモアで刈取りした農地を侵食がおきにくい状態にしておくことが目的。収穫当日から翌年の2月末日まで,指定する方策の少なくとも1つを実施する。(a)刈り株放置(圧密層を破壊する場合には,除去する刈り株を最少にする),(b)冬期間中カバークロップの不耕起栽培,(c)可能な場合には冬作物の栽培,(d)雨水の浸透を良くするために,プラウやディスクをかけた後,凸凹のままに放置するなど。
(4) 水系隣接圃場の緩衝帯
水系隣接圃場の縁に6 mの牧草緩衝帯を設置することはクロス・コンプライアンス要件ではない。しかし,実施することを助言する。
以上の土壌管理の具体的な方法は,DEFRA (2009) Single Payment Scheme. Cross Compliance Guidance for Soil Management. 2010 edition に解説されている。
2〜4.GAEC2〜4
当初はGAEC項目として独立していたが,現在はGAEC 1に統合
5.GAEC 5 環境インパクト評価
15年間以上の未耕地および半自然地で,羊の放牧などを行なっているケースで,農業生産性を上げようとする際に,その環境的重要性を認識することが目的。自然保護所管官庁(Natural England)の許可を得ていない2 ha以上の未耕地または半自然地が対象で,許可を申請して,修復注意事項を遵守しなければならない。林地の場合は,森林委員会(Forestry Commission)に許可を申請する。
6.GAEC 6 科学的に特別な場の保全
科学的に特別な場(Sites of Special Scientific Interest: SSSI)とは,生息地または景観の科学的特性が重要なサイト(場),生物学的SSSIと地質学および自然地理学的SSSIとに区分されており,SSSIを保護・管理・維持するのに資することが目的。農地がSSSI内に存在する場合には,自然保護所管官庁の規定を遵守し,規定外の特別な作業を実施する際には,事前に文書で許可申請を行なわなければならない。
7.GAEC 7 登録遺跡の保全
登録されている遺跡は,景観の重要な要素になっており,それを保護することが目的。農地内に登録遺跡が存在する場合には,それを破壊・損傷・移動などを行なう作業は,遺跡管理の所管官庁(English Heritage)の文書による許可が必要で,その規定を遵守しなければならない。
8.GAEC 8 通行権の確保
農地内に優れた景観を眺められる公道(歩道,馬車道,小道)が存在する場合には,歩道は最低1 m,その他は最低2 mの幅で,容易に識別できて,通行しやすい状態に維持しなければならない。
9.GAEC 9 過剰放牧と非持続的な飼料補給の禁止
経営地内に存在する自然または半自然植生地を含む生息地を保護するために,当該地における過剰放牧や不適切な飼料補給を禁止する。ただし,異常気象期間において動物福祉のための飼料補給は認める。関係省庁からの指示を遵守しなければならない。
10.GAEC 10 ヒースや野草の野焼きの禁止
経営地内のヒースや野草の荒野を維持するために,自然保護所管官庁の発行した許可のない場合,荒野の植生を野焼きしてはならない。野焼きする場合には,延焼を防止し,人的事故を回避するように確保する。
11.GAEC 11 雑草防除
生息地や農地を損なう強害雑草や侵入雑草の蔓延防止策を講じなければならない。
【強害雑草】Senecio jacobaea(ヤコブボロギク),Cirsium vulgare(アメリカオニアザミ),Cirsium arvense(セイヨウトゲアザミ),Rumex obtusifolius(エゾノギシギシ),Rumex crispus(ナガバギシギシ)
【侵入雑草】Rhododendron ponticum(セイヨウシャクナゲの一種),Reynoutria japonica(イタドリ),Heracleum mantegazzianum(和名なし),Impatiens glandulifera(オニツリフネソウ)
12.GAEC 12 生産を行なっていない農地の管理
生産を行なっていない農地について,望ましくない植生の侵入回避や生息地として保護を行いつつ,良好な農業的および環境的に状態に維持することが目的。毎年5月17日時点で生産を行なっている農地は,当該暦年内は生産を行なっている農地とする。5月17日時点で生産を行なっていない農地は,当該年の1月1日または生産を止めた月日から生産を復活した月日まで,生産を行なっていない農地とする。
農業生産に使われている農地とは,下記とする。
(a) 作物が地面に植え付けられている
(b) 次作の耕起や散布などの準備作業が開始されている
(c) 家畜が放牧されている
(d) 農地がサイレージや乾草用に採草利用されているか,その後で放牧される予定である
生産を行なっていない農地では,少なくとも5年に1回は,低木の侵入を,刈取りか放牧で阻止しなければならない。また,生産を行なっていない農地についても,GAEC 1にしたがって土壌リスクをチェックし,必要な対策を講じなければならない。
生産を行なっていない農地では,3月1日から7月31日の間は,野鳥の産卵や子育てを妨げないように,植生を刈取りないし鋤込んではならない。また,刈取りを行なう際には,どの月であっても,生産を行なっていない農地の50%以上を刈り取ってはならない。ガンの餌場として管理する場合を除いて,冬に肥料や家畜ふん尿を施用してはならない。
13.GAEC 13 石垣の保全
石垣は,圃場の境界として使われているもので,その連続の長さが少なくとも10 mはあるか,10 mに満たなくとも,他の圃場の境界部分との交差点や連結点となっているか,小さな囲みを形成しているものとする。
石垣を撤去してはならず,石垣の石は指定された場合を除いて移動してはならない。
(注)石垣は,石を積み上げて家畜柵として使用しているもので,電気牧柵よりは景観的に優れ,積み上げた石の隙間が昆虫や鳥類の生息地として機能している。
14.GAEC 14 生垣と水系の保護
生垣や水路などの圃場の境界部分とそこの生息地を保護することが目的。
生垣は連続長が20 m以上のものだが,別の生垣との接点では20 m未満でも良い。生垣中心部から2 m以内,水系や圃場排水路から2 m以内を耕作し,肥料(化学肥料,有機質肥料,家畜ふん尿,堆肥を含む)や農薬を施用してはならない。水系や圃場排水路の土手最上部から1 m以内の土地を耕作し,肥料や農薬を施用してはならない。
(注)生垣は,胸の高さ付近で樹木の幹の約2/3にナタ目を入れて倒し,倒れた樹木から生長した枝を絡めて細かい目の柵を作り,同様に倒した別の樹木の柵との間も互いの枝を絡めて,家畜柵としたもので,連続した木立が鳥類をはじめとする野生動物の住み家として機能している。
15.GAEC 15 生垣の保全
管理当局の許可なしに生垣を撤去してはならない。鳥の繁殖する3月1日から7月31日までは生垣を刈り込んではならない。
16.GAEC 16 樹木の伐採禁止
樹木は生息地や景観要素として重要であり,地方の森林委員会事務所の許可なしに伐採してはならない。
17.GAEC 17 「樹木保全令」の遵守
「樹木保全令」の対象の保護地域では許可なしに,樹木の伐採,故意の損傷,掘り起こし,刈り込みを行なってはならない。
18.GAEC 18 取水許可
1日当たり20 m3を超える水(表流水と地下水)を灌漑用に取水する場合は,当局から許可を得て行なう。
●日本も耕作放棄地対策としてEUのやり方を取り込もう
日本では,平均経営農地面積が狭隘なこともあって,他産業に比肩できる収益性の高い農業を実行することが難しい。大規模専業農家が増えつつあるとはいえ,割合はまだ低い。後継者が他産業に流出し,残っている担い手が高齢化し,農業を続けることができなくなって,耕作放棄した農地が増えてきている。
こうした事態に対して,2009年に改正された「農地法」によって,農地の所有権や賃借権などを有する者(農事組合法人,株式会社などを含む)は,農地を農業的に適正かつ効率的に利用する義務を有することが規定されている。そして,農業委員会が,毎年1回,所管区域内にある農地の利用状況を調査し,(1) 現に耕作の目的に供されておらず,かつ,引き続き耕作の目的に供されないと見込まれる農地や,(2) その農業上の利用の程度がその周辺の地域における農地の利用の程度に比し著しく劣っていると認められる農地については,農業上の利用の増進を図るため必要な指導を行なうことになっている。ただし,所有者が指導に従う意思がないむねを表明し,農地の農業上の利用の増進が図られないことが明らかとなった場合には,農業委員会が,当該農地の所有権や賃借権の移転など希望する農地保有合理化法人,農地利用集積円滑化団体,または,農地の利用集積を行なう特定農業法人のうちから所有権の移転等に関する協議を行なう者を指定して,所有権や賃借権の移転などの協議を行なうことができるようになっている。また,協議を行なうことができない場合は,都道府県知事が農業委員会の協力をえて調停を行なうことなどが規定されている。
こうした農地法による耕作放棄地対策は,その耕作放棄地を使って,農業を行なおうと名乗り出てくれる者がいれば解決できるが,そうでないと耕作放棄地のまま放置せざるをえないことになりかねない。もうかる農業を行なえるなら,耕作放棄地の引き受け手も多いはずだが,もうかる農業が行なうのが難しいから,耕作放棄地が増えているのだ。
EUの場合には,直接所得補償を行なう条件として,耕作放棄地を出してはならないとしている。他方,日本で始められようとしている戸別所得補償制度は,耕作放棄地のことを問題にしていない。戸別所得補償を受ける農家は,自営農地の一部であっても,耕作放棄地を作ってはならず,既に耕作放棄されている自営農地を含め,農業生産を行なわない農地は,最小の手間でいつでも生産に戻せる状態(例えば,牧草やカバークロップを栽培して定期的刈り込みを行なう,水田なら常時湛水して水生生物の生息地とするなど)に維持することを義務化して良いであろう。