●「枠組指令」施行の経緯
毒性の強い農薬の使用や,低毒性であっても農薬の不適切な使用は,人間の健康や環境にマイナス影響を与える高いリスクを持っている。このため,どこの国でも健康や環境の安全性を確保するために,作物や樹木に対する有害生物を防除する農薬の登録,販売や使用を規制する法律を定めている。その一方で,通常,農薬使用量の削減や無使用を,別の法律によって助長を図っている。
例えば,日本では農薬の登録,販売や使用を「農薬取締法」で規制している反面,総合食料局長・生産局長・消費・安全局長通知である「特別栽培農産物に係る表示ガイドライン」で減農薬やIPM(総合的有害生物管理)の普及を助長している。しかし,化学合成農薬による有害生物管理を行なう農業が主体であって,化学合成農薬よりもIPMを優先した農業の方向に誘導する法的措置を行なってはいない。なお,IPMは害虫防除の分野で始められたので,当初は総合的害虫管理と訳されたが,その後,対象生物が病原菌にも拡大されて,総合的病害虫管理,さらには雑草なども含めて総合的有害生物管理と訳されている。農林水産省におけるIPMの検討結果と具体例は,「総合的病害虫管理(IPM)検討会」の資料を参照。
EUは,2002年7月に農薬使用リスクの削減戦略案についてパブリックコメントを募集して以来,有害生物防除のための農薬使用にともなう健康と環境の安全性確保を向上させるための方策を検討してきた。その際,下記を重視した戦略の立案を検討してきた。
・農薬の使用と流通における規制の強化
・毒性レベルの高い農薬のより低い代替物(非化学的手段を含む)への置き換え
・低農薬投入農法や農薬無使用農法の助長
・指標開発を含む,農薬リスク状態のモニタリングと報告システムの確立
そして,新しい戦略に沿った新たな農薬行政を実施するために,農薬の安全使用を強化すると同時に,農薬使用量の削減や無使用を助長させる法律を,加盟国が早急に制定することを定めた枠組指令を2009年10月21日に成立させ,同年11月14日に施行した(2009年10月21日成立の農薬の持続可能な使用を達成するための共同体の行動のための枠組を定める欧州議会および閣僚理事会指令2009/128/EC: Directive 2009/128/EC of the European Parliament and of the Council of 21 October 2009 establishing a framework for Community action to achieve the sustainable use of pesticides. )。
以下にこの枠組指令の概要を紹介する。
●国家行動計画
加盟国は,2012年12月14日までに,人間の健康と環境に及ぼす農薬使用のリスクとインパクトを削減するための,農薬使用量の削減や,農薬使用への依存を減らすための総合的有害生物管理や代替技術の開発や普及の助長について,量的目標や工程表を含む,国家行動計画を策定し,欧州委員会と他の加盟国に通知する。
目標としては,作業者の保護,環境の保護,残留農薬の削減,特定技術の使用,特定作物の使用など,いろいろな関心事項を対象にすることができる。加盟国は国家行動計画を少なくとも5年ごとに見直す。
●研修
加盟国は,農薬のプロ的使用者(その職業活動の一環として農薬を使用する者),流通業者および技術アドバイザーに対して,農薬の安全性確保に関する研修を実施する組織を指定する。研修は,必要な知識を獲得し更新できるように,就業時とその後の追加的なもので構成し,加盟国は該当者が研修を受講できるように制度を整える。
研修では,農薬関連法規,違法農薬の危険性と見分け方,農薬使用にともなう危険やリスクと対策方法,IPM,多様な防除法の比較,安全散布法,散布機の調整・メンテナンス法,農薬事故への対処法,農薬使用記録の記帳の仕方などを教える。
研修修了者には修了証明書を発行する。
●農薬の販売
加盟国は農薬の販売について下記を法律で定めなければならない。
(1) 農薬の販売などを行なう流通業者は,研修の修了証明書を有する十分な数の従業員を確保するようにする。
(2) 流通業者がプロ的使用者に農薬を販売する際には,研修終了証明書を有する者にしか販売できないようにする。
(3) 流通業者が非プロ的使用者(家庭菜園や庭などで使用する一般の使用者)に農薬を販売する場合には,非プロ的使用者に農薬使用の健康や環境へのリスクに関する一般的情報,特に,危険性,暴露,適切な貯蔵,ハンドリング,散布,安全廃棄,リスクの少ない代替物についての情報を提供するようにする。
●農薬散布装置
加盟国は,農薬散布装置の検査を行なう組織を指定する。そして,2016年12月14日までに,プロ的使用者の所有している既存の農薬散布装置を少なくとも1回,新しく購入した装置を少なくとも5年に1回は検査し,この期日以降は検査にパスした装置しか使用できないようにする。検査間隔は2020年までは5年間を超えず,その後は3年間を超えてはならない。
ただし,現在は農薬散布に使用されていない農薬散布装置,手持ちの農薬散布装置またはナップサック型(背負式)散布機,使用頻度が非常に低い補足的な農薬散布装置(トレーラや航空機に装着された散布装置,3 mを超えるブームスプレーヤを除く)には,国家行動計画に規定したうえで,異なった工程表や検査間隔を適用しても良い。また,手持ちの農薬散布装置またはナップサック型散布機は検査を除外しても良い。
●空中散布の原則禁止
地上散布による現実的な代替法がない場合や,加盟国が空中散布用に許可している農薬を用い,なおかつ所定の条件を満たしている場合を除き,農薬の空中散布は原則禁止する。
●水環境と飲料水供給の保護のための特別な措置
水環境と飲料水供給の保護のために,下記の特別な措置を講ずるようにする。
(1) 水環境に危険と分類されていない農薬や,非常に危険な物質を含んでいない農薬を優先させる。
(2) 果樹,ホップなど草丈の高い作物には,ドリフトの少ない散布装置を使用させる。
(3) 散布ドリフト,表面流去水,圃場排水などによって,水質と水生生物が悪影響を受けないように,圃場や表流水の縁にバッファーゾーンやセーフガードゾーンなどの措置を講じさせる。
(4) 道路,線路,浸透性の高い表土,表流水や地下水の近傍など,表面流去水が,表流水,下水や地下水に流入するリスクの高い場への農薬散布を,できるだけ減らすか排除させる。
●特別な場での農薬使用制限
自然保護地域や,一般の人達が使用する場(公園,庭園,運動場,レクリエーショングランド,校庭,子供の遊び場,医療施設の近傍)などでは,リスクの低い農薬や非農薬方策を考慮し,農薬の使用を最少にするか禁止する。
●農薬のハンドリングと貯蔵ならびに包装材や残物の処理
農薬のプロ的使用者や流通業者による下記の作業が人間の健康や環境に危険を及ぼさないように,必要な措置を講ずるように規定しなければならない。
(1) 農薬の貯蔵および散布前のハンドリング,希釈,混合
(2) 散布後における包装材および残物のハンドリング
(3) 散布後に残っているタンク内混合物の廃棄
(4) 散布後における装置の洗浄
(5) 廃棄物に関するEUの法律にしたがった残物と,その包装材の回収または廃棄
●総合的有害生物管理(IPM)
加盟国は,農薬のプロ的使用者が有害生物(病原菌,害虫,雑草,齧歯類など)を管理する際に,可能な限り,非化学的な方法を優先し,農薬投入量の少ない方法(総合的有害生物管理や有機農業)を採択するのを助長する措置を講じなければならない。そのために,加盟国は,プロ的使用者が必要なアドバイスやツールを入手できるようにして,総合的有害生物管理を実施するのに必要な条件を確立,または支援しなければならない。そして,加盟国はプロ的使用者に対する支援の実施状況や有害生物管理の実施状況を,2013年6月30日までに欧州委員会に報告する。
本枠組指令は,付属書の1つで有害生物管理の一般原則を定めている。加盟国は,一般原則に即した有害生物管理のガイドラインを策定し,その実施を助長するために適切なインセンティブを設けるなど,その一般原則がプロ的使用者に実施されるようすることを如何に担保するかを,2014年1月1日までに国家行動計画の中に明記する。
●有害生物管理の一般原則
付属書に書かれた有害生物管理の一般原則は下記のとおりである。
(1) 有害生物の防除ないし抑制は,いろいろな選択肢のなかでも特に下記によって達成するか,下記を土台にしなければならない。
・作物輪作
・適切な栽培技術。例えば,おとり播種床(stale seedbed technique:播種に先だって播種床を作り,発芽してくる雑草を手で除き,数週間後に播種を行なう),播種の期日と密度の調整,畦間緑肥(undersowing:作物のない畦間などを生育の早いマメ科植物などの緑肥作物で被覆し,雑草を防除し土壌肥沃度を向上させる),保全耕耘,刈り込みと直播
・抵抗性・耐性品種,保証付き種子や苗
・バランスのとれた施肥,石灰施用,灌漑・排水作業
・圃場衛生。例えば,機械や装置の定期的洗浄
・有益生物の保護と増進。例えば,適切な植物による保護または圃場内外の生態学的インフラストラクチャーの利用による
(2) 有害生物を,可能な場合,適切な手法やツールを用いてモニタリングしなければならない。そうしたツールとしては,圃場での観察に加え,科学的に信頼できる警報・予想・早期診断システム,プロ資格を持ったアドバイザーのアドバイスの使用などがある。
(3) モニタリング結果に基づいて,植物保護措置を講ずるか否か,いつ講ずるかを決定しなければならない。地域,作物,気象条件などで設定された植物保護措置の要否を判定する有害生物の閾値レベルを,事前に把握しておくことが不可欠である。
(4) 生物学的,物理的および他の非化学的手法によって満足できる有害生物防除が可能になるなら,それらを化学的手法よりも優先しなければならない。
(5) 施用する農薬は標的生物にできるだけ特異的なものであって,人間の健康,非標的生物や環境への副次的影響が最小なものでなければならない。
(6) 農薬およびその他の防除手段は,必要なレベルにとどめ,有害生物の抵抗性が発達するリスクを高めてはならない。
(7) 抵抗性が生ずるリスクが分かっており,作物への農薬のくり返し施用が必要な場合には,作用機構の異なる複数の農薬を使用するなど,抵抗性発達を阻止する戦略を適用して,製品の有効性を維持するようにしなければならない。
(8) 農薬使用の記録と有害生物のモニタリングの記録に基づいて,実施した作物保護措置の成功度をチェックしなければならない。
●その他
加盟国は,本指令に基づいて採択した国の法律に対する違反に適用する罰則を2012年12月14日までに定める。
加盟国は本指令に基づいて義務となる業務に要するコストを料金または負担金の形で回収することができる。
加盟国は,2011年12月14日までに,本指令の遵守に必要な法律,規則および行政規約を発効させなければならない。
欧州委員会は,下記に財政支援を行なうことができる。
(a) 加盟国から報告された情報を収集し蓄えるデータベースシステムの開発と,その情報の所管当局やその他の関係組織および一般国民に提供すること。
(b) 技術発展への適用など,法律の改正に必要な調査を実施すること。
(c) 本指令の施行を容易にするガイダンスや優良規範を開発すること。
●おわりに
OECD国における耕地面積(永年作物地面積を除く)当たりの農薬原体使用量をみると,2001-03年では韓国と日本が突出していて,EUの国々の使用量は少ない(環境保全型農業レポート.No.114 OECDの指標でみた先進国農業の環境パフォーマンス)。この理由として,夏期高温多湿な東アジアでは夏期の有害生物の繁殖が顕著なことが指摘され,農薬をEUのように少なくすることはできないといわれている。しかし,1990-92年の値をみると,集約農業の活発なオランダでは,耕地面積当たりの農薬原体使用量がOECD国のトップであった。それが,2001-03年には4位へと使用量を大幅に下げた。この原因の一部には,オランダの花き生産者の一部がアフリカなどの国外に生産拠点を移したこともあろうが,オランダ農業が農薬や肥料を削減する努力を継続していることが大きな原因になっていると考えられる。
日本でもオランダのように,農薬の使用量を削減する努力をさらに強化する余地が多分に残されていると考えられる。