No.115 世界の農業普及の流れ

 FAOは,途上国を中心に,農業者と農村住民の食料安全保障や生活を向上させるための普及活動の現状と改革の方向について,出版物を刊行した。このなかでFAOは先進国では,農業経営体は技術や経営のコンサルタントを民間から有料で購入しているのに対して,途上国では公的機関が主体になって普及活動を行っているが,様々な問題があることを論じている。そのなかで公的機関が行う普及活動の重要な要素として,農業にかかわる自然資源の管理の指導を指摘している。その概要を紹介する(Burton E. Swanson (2008) Global Review of Good Agricultural Extension and Advisory Service Practices. FAO. 64p)。

●世界の農業と普及の形態

 著者はアメリカのイリノイ大学の名誉教授である。このためか,国レベルの農業の発展段階を,小規模零細な自給的農家の割合が圧倒的に高い国から,アメリカのような大規模商業的農家の割合が高い国へ発展するものとしている。確かに日本でも戦前は小規模零細な小作農が多かったが,戦後の農地解放をへて,小規模自作農が増えて,最近では大規模経営体も増えてきている。とはいえ,アメリカなどの新大陸の大規模農業は,侵略者が奪った土地に作られたものである。それゆえ,小規模零細農家割合の高い国から大規模農家の割合の高い国に発展するのが必然かのような文脈には,納得しかねる部分がある。

 それはともかく,小規模農家割合の高い途上国では,公的普及機関による無償の普及活動がなされているが,効果を上げていない。他方,先進国の農業では,民間企業が開発・販売している各種資材(肥料,農薬,種苗,機械,家畜,飼料など)の利用が高まり,規模の大きな商業的農家はそれらを購入しているだけでなく,それらを販売している企業から有償で技術指導を受けている。そして,無償の公的普及機関からの指導はわずかしか受けていない。

 こうした先進国と途上国の対比のなかで,日本は両者の中間にあるように思える。このためか,農産物貿易の自由化促進の議論のなかで,日本の農業普及が公的機関によって無償でなされていたことに批判がだされたりした。

●普及という用語

 普及(extension)という用語は,19世紀後半にイングランドにおいて大学が行なう成人教育講座を表すものとして最初に使用された。これは大学の仕事を外部に広めるのに役立った。アメリカではランド・グラント大学(国有地の譲渡を受けて設立された大学で,連邦政府の援助を受ける資格のある大学)が設立され,教育,研究に加えて,1914年に普及活動が任務として追加された。他方,イギリスは普及活動の責任を大学から農業省に移管し,20世紀になって普及の名称をadvisory serviceに変更した。ヨーロッパにはイギリスにならって,普及の用語をadvisory serviceとし,所管部署を農業省としている国が多い。

 その後,アメリカは1960年代と70年代に多くの途上国に対して農業大学と普及システムの設置を積極的に支援した。このため,途上国にはextension serviceを用いている国が多いが,サハラ砂漠以南のアフリカ諸国など,advisory serviceという用語を使う国も多い。ただし,ほとんどの途上国では,普及は農業省の所管となっている。

 advisory serviceとextension serviceとに微妙な違いがあるとする人もいるようで,前者が技術移転に力点を置いたもの,後者は農家に対する技術,経営管理や人材養成などのノウハウの非公式な教育に力点を置いたもの,というわけである。しかし,通常,両者は同義語として使用されている。

●食料安全保障とは

 1996年11月にローマで開催されたFAO(国連食糧農業機関)主催による世界食料サミットで採択された行動計画は,その第1項において,「全ての人々が,あらゆるときに,活動的で健康な生活のために,十分な量の安全で栄養のある食料に物理的および経済的にアクセスして,食餌としての要求と食べ物の好みを満たせるときに,食料安全保障がなされている。」とし,食料安全保障は,個人,家庭,国,世界などのそれぞれのレベルで確保されることが必要なことを記述している。そして,飢餓に苦しんでいることはまさに食料安全保障が確保されていないことであり,飢餓に苦しむ人達をなくす活動にFAOは取り組んでおり,現在の飢餓人口を減らすことこそが食料安全保障の最大の目標とされている。

 他方,飽食でメタボリック症候群の人達が多い日本では,大きく様相が異なっている。食料安全保障というと,いつかは不明だが,将来に海外からの食料輸入が困難になって,日本が国レベルで飢餓に陥ることがないように,食料を確保できるようにすることが食料安全保障だ,と考えられている。しかし,こうした将来の不安の解消は,国際的な食料安全保障の対象になっていない。

 なお,内閣府が2008年11月17日に「食料・農業・農村の役割に関する世論調査」の結果を公表したが,その中で国民の食料安全保障に関する意識の最新結果が示されている。

●国レベルの食料安全保障から家庭レベルの食料安全保障へ

 20世紀後半において大部分の途上国では,国民に十分な量の基本的食料を供給する国レベルの食料安全保障が重要な課題であった。このため,多くの途上国では中央集権的なトップダウンの構造を持った公的普及機関が,「緑の革命」のコメやコムギなどの多収穫品種を用いた革新的農業技術を農業者に移転し,穀物生産を向上させるのに成功した。

 革新的農業技術によって,先進国と途上国の双方で穀物生産量が飛躍的に向上した結果,80年代から90年代にかけて世界の穀物価格が下落し続け,途上国の小規模農家の所得が厳しくなった。このため,国レベルで穀物の生産量を確保できたとしても,安価な穀物だけの生産では農家の所得は下落し,十分な食料を購入できない状況が拡大した。そこで,1996年のFAOの世界食糧サミットは,家庭や個人の食料安全保障と,食料へのアクセスや栄養に焦点を当てて,その再構築への努力が重視された。

 他方,中国やインドなど急速に経済を発展させてきた途上国が典型だが,多くの途上国において,経済発展によって都市部の消費者が果実,野菜,畜産物に対する需要を急速に高めてきた。このため,普及組織は,基本食料の穀物の生産技術だけでなく,都市部の消費者の需要変化,つまり,市場動向に対応して,これらの付加価値の高い農産物生産によって農家の所得を向上させて,食料購買力を高めて,家庭レベルでの食料安全保障を確保できるようにすることが課題となった。そのために,(1)小規模な農業者や農家の婦人を生産者グループに組織化し,付加価値の高い農産物の生産・加工・販売に必要な技術や経営管理のノウハウを修得できるようにするとともに,(2)農家の婦人を自助グループなどに組織化して,家族の健康,衛生や栄養を改善し,(3)さらに貧しい家が学校の経費を払えるようにして,農村の子供達の教育レベルを向上させることができるようにすることが,普及組織の課題となっている。

 しかし,多くの途上国では,資材供給企業の多くが,農業者に正しい技術アドバイスを提供する技術能力を持った販売スタッフを有していないのが現実である。そのため公的普及組織には,民間企業を競争相手とみるよりも,民間企業の販売・技術スタッフを教育するといった,民間企業に協力しながら,普及を進めていくことが求められている。また,公的普及組織はトップダウンの中央集権的な構造を廃止して,地方の普及組織が,地域の実情に合った普及プログラムを企画して実行できるように,地方の独自な活動の自由度を高めることが必要になっている。その際,乏しい公的予算だけでなく,民間のドナー(資金提供者)からの資金も受け入れられるようにするとともに,予算執行についても自由度を高められるようにすることが必要である。

●先進国の普及体制

 他方,先進国では,農業資材とそれに関係する技術は,ますます民間企業が開発して所有権を持っているものとなっており,民間企業の開発した資材や技術を使用した商業的生産者の割合が高まっている。このため,先進国の技術にかかわるアドバイスサービスは今後とも民間企業に移管されてゆくことになろう。ヨーロッパのいくつかの国々や,オーストラリアやニュージーランドの公的普及システムは,その大方が消滅したか,民営化された。

 例えば,イギリスの公的普及組織は,1972年に「農業開発普及サービス」(Agricultural Development Advisory Service: ADAS)に改組されていたが,1987年に民営化されて,段階的にコンサルティング会社に変わり,現在では「ADASコンサルティング会社」(ADAS Consulting Limited)となっている。そして,民間企業や政府の様々な委託業務を競争入札で契約して資金を確保している。そして,商業的農業者への普及サービス提供は,ADASコンサルティング会社ではごくわずかしか行なっておらず,実際には民間企業が主に行なっている。

 フランスでは各県の農務部に雇用された約7,000人の普及スタッフによる公的普及組織が大きな役割をはたしている。ただし,農業者は,生産している作物,家畜や農産物の種類には関係なく,農業を行なっているha面積に基づいて,一律に普及のための税金を支払っている。県の農務部は,その税金を,地域の農業生産の実態に基づいて普及スタッフに配分している。この方式は主に小規模と中規模の農業者の要求に応えるものとなっており,大規模な商業的農業者は,各県の普及スタッフからよりも民間の投入資材供給企業からより多くのアドバイスを得ている。

 また,北アメリカでの公的普及システムは,人材養成に加えて,技術および経営管理のノウハウもなお対象にしているが,技術移転活動の多くは民間企業や農業協同組合によって実施されている。

 因みに先進国には,このように農業者が民間企業による技術指導を有償で受けたり,公的普及機関の活動資金を税金のかたちで拠出したりしている国が増えている。このため,今なお高い割合の農家に対して無償で公的普及組織から質の高い技術支援を与えている日本は,過度に農業者を保護していると,農産物貿易交渉に関連した論議では批判をあびることが少なくない。

●自然資源の持続可能な管理

 現在の農法は農地や水資源を過剰使用していて,持続可能なものではない。このため,持続可能な自然資源管理を普及の優先事項にしなければならない。自然資源は「公益」的性格をもっており,そうした性格を考慮した持続可能な自然資源管理に関連した普及活動を,企業が対象にするとは考えられない。また,多くの国では,多くの自然資源の「持続可能な使用」を法律で強制することも難しい。それゆえ,なかでも灌漑水の使用量を減らすなどの水使用管理,土壌生産力を維持し,周囲の環境への負荷を最小に抑える土壌および農地の管理,農薬汚染を削減して農産物の安全性を向上させる総合的有害生物管理についての農業者の教育や技術指導について,途上国だけでなく先進国でも,公的普及組織が自然資源の持続可能な管理についてますます指導することが必要になっている。