●土壌質とは
「土壌質」soil qualityという用語は日本ではあまり馴染みがない。農業工学の分野では土質力学という領域があるが,これは土を工学的材料と考え,その物理的性質を研究する学問体系である。これに対して,アメリカのNRCS(農務省自然資源保全局)は1995年に,「土壌質」について,「土壌質とは,具体的な土地利用ないし生態系の境界内で発揮する土壌の能力のことで,この能力は土壌に本来備わっている特性で土壌によって異なる。有機物含量,塩類濃度,易耕性,緻密性,可給態養分,根張り可能な深さなどが,土壌のその質的状態ないし健全性を測定するのに役立っている」としている。
日本では土壌質という用語が一般化されていないが,水質や大気質は一般化されている。土壌はいったん劣化してしまうと,その再生が非常に遅いため,行政は,土壌質と作物生産性を高めるコスト効果の高い農業管理作業の選択肢を農業者に提供することが必要になっている。
●土壌質指標の値を増加させる農業管理作業の評価方法
土壌質の指標として何を選定するかは,土壌学者なら経験的にいくつか選び出すことができよう。問題は,選定した農業質指標の値が,どの農業管理作業でどの程度向上するかである。
ヨーロッパ委員会が中心になって,中国政府とスイス政府が共同出資して,土壌の性質と機能に対する農業管理作業の土壌質指標に対する影響を評価する「農業の生産性と環境の復元力に関するヨーロッパと中国における土壌質の相互評価」に関する研究プログラム “iSQAPER” (Interactive Soil Quality Assessment in Europe and China for Agricultural Productivity and Environmental Resilience)を実施した。その結果は下記に報告されている。
このプロジェクトでは,土壌の機能として作物生産機能を取り上げ,4つの土壌質指標(土壌有機物含量,pH,土壌団粒安定性,ミミズ個体数)と,土壌質だけに限定されない作物収量と選定した。そして,農業管理作業が土壌の性質に及ぼす影響がある程度顕著になるには少なくとも5年を要することから,5年以上継続している圃場試験の研究報告結果を収集した。このためにiSQAPERプロジェクトの枠組に整合した13のケーススタディサイトから収集した30の長期試験のデータを対象とした。これらに加えて,中国各地に広がった42の長期実験と,文献として刊行されたものを合わせて,合計402の観察のデータを分析した(長期試験の期間は5-34年間)。
分析に供したデータは,4つのペアになった農業管理作業([有機物施用]対[有機物無施用],[無耕耘]対[慣行耕耘],[作物輪作]対[単作],[有機農業]対[慣行農業])が5つの指標に及ぼす影響のデータとした。すなわち,有機施用に対しては有機無施用,無耕耘に対しては慣行耕耘,輪作に対して単作,有機農業に対しては慣行農業を基準作業とみなした。そして,相対的影響をそれぞれの対の作業について,「指標応答比率」(基準作業での値に対する倍率)indicator response ratio (RR) によって分析した。
●農業管理作業による土壌質指標の変化
有機物施用,無耕耘,輪作および有機農業の4つの農作業によって,土壌質指標は,安定した傾向を示したが,分散が大きかった(表1)。
● 表1で基準作業に対する応答比率の中央値が1か1に近いことは,土壌質指標の値が基準作業と同じか近いことを意味し,
● 応答比率の中央値が>1であることは,当該の基準作業に対してプラスの変化を示し,土壌質の観点からは好ましいと考えられている。しかし,pHの結果は,土壌タイプや作物のpHの範囲(酸性,中性または塩基性)によって注意深く解釈しなければならない。
● 応答比率の中央値が<1であることは,当該の基準作業に対してマイナスの変化を示し,土壌質の観点からは好ましくないと考えられている。
以下、個々の項目について、表1には加えなかった具体的なデータも加味しながら解説する。
(1)有機物施用対有機物無施用
有機物施用は,5つの土壌質指標全てにプラスの有望な影響を与えた。最も有望な影響はミミズ個体数に対して観察され,次いで収量,土壌有機物含量および土壌団粒安定性の順であった。pHについては,影響は,例えば,有機物施用はpHにほとんど影響しなかった結果となっているが,表1には表示していないが,酸性土壌のpHに有望な影響を与えており,むしろ土壌タイプに依存した。こうした結果は他のレビューに報告されたものと類似している。
有機物施用にともなう土壌有機物含量の増加は,施用した有機物の量とタイプ並びに施用期間によって異なる。EUで試験した有機物は主に堆肥,きゅう肥およびスラリーだが,その同等量の施用によって,表層10 cmの土壌有機物含量がそれぞれ37%,23%および21%増加し,施用期間とともに土壌有機物含量は,新たな平衡に到達するまで増加した。
(2)無耕耘対耕耘
無耕耘は一般に土壌有機物含量や土壌団粒の安定性を高めた。土壌有機物含量に関して,全データセットでの応答比率の中央値は1.20であった(表1)。土壌有機物についての応答比率の中央値は,トウモロコシで1.02,冬コムギで1.20,オオムギで2.12,他の作物で1.48の幅を有していた。
無耕耘はミミズ個体数を高めたが,雑草や病害虫を防除するために除草剤や殺虫殺菌剤を施用した場合には,必ずしも高めるとは限らなかった。
全体として収量は無耕耘で若干減少し,応答比率の中央値は0.98であった。が,冬コムギで0.81,トウモロコシで0.85であった。しかし,こうした影響を結論とするにはサンプル数が少なすぎる。
他の研究からは,無耕耘によって表層土壌の土壌質が向上し,土壌生物活性,養分循環が高まり,仮比重が低下したことが観察されている。
また,耕耘それ自体は直接土壌pHに影響しない。むしろ耕耘のpHへの影響は,pHを決めている支配的な要因である気候条件,母材,土壌タイプや,化学肥料ないし石灰の施用のような管理要因に依存している。
なお,無耕耘はオーストラリア,南アメリカ,アメリカおよびカナダで比較的広く採用されているが,ヨーロッパではそうではない。
(3)作物輪作対単作
作物輪作は,ミミズ個体数,土壌有機物含量や収量に全体としてプラスの影響を与えたが,作物のタイプによって異なるが,土壌pHや土壌団粒安定性にほとんど影響しなかった。
(4)有機農業対慣行農業
有機農業は団粒の安定性と土壌有機物含量を高め,さらにミミズ個体数を増やす傾向を明確に示したが,pHについては,明確な傾向を示さなかった。そして,有機農業では収量の中央値が0.89であり,有機の収量低下の中央値は11%であった。
●まとめ
土壌の質を高めて,農業生産機能や生態系機能をできるだけ高レベルで長期に維持するために,土壌に対してどのような農作業を行なうことが良いのか。この疑問に答えるために,土壌の農業生産機能として大切な,土壌質である土壌有機物含量,pH,土壌団粒安定性,ミミズ個体数と,土壌質だけに限定されない作物収量と選定し,ヨーロッパと中国での長期圃場試験を用いて,有機物施用と無施用,無耕耘と耕耘,輪作と単作,有機農業と慣行農業が,これらの土壌質指標にどのような影響を与えているかを解析した。
その結果,土壌の質を高めるには,堆肥などの有機物を施用し,耕耘をせず,輪作で,有機農業を行なうのが良いことが確認された。
これらの農作業は農業の基本だが,その実施には労力を要し,輪作のために作付する作物の種類が制限される。このため,農薬を使用した商品価値の高い作物の単作,有機物施用の省略による化学肥料の偏重が行なわれてきている。目前の収益向上に縛られずに,長期にわたって安定した高品質作物の生産を確保する農作業を継続する重要性が,本研究から再確認された。