●はじめに
窒素肥料の化学合成が可能になってから,作物の単収が飛躍的に向上して,世界の食料生産が急速に拡大し,それとともに人口も急速に増加してきた。それゆえ,今,もし化学肥料を全廃したら,世界の食料生産は再び昔の水準に戻り,世界的飢餓が生じると考えられる。
しかし,環境保全型農業レポート「No.222 有機農業だけで世界の人口を養えるか?」に紹介したように,有機農業を強く支持するグループは,現代でも有機農業によって,化学肥料を使用する慣行農業に遜色ない収量を確保して,世界人口を養えると主張している。
そうした主張の論拠として,いろいろな国で実施された有機農業と慣行農業による食料単収の実験結果を比較して,先進国では有機農業で単収が有意に低下するものの,途上国では有機農業によって植物性食料で平均1.7倍,動物性食料で2.7倍に増加し,世界全体では食料不足が生じないとのバッジリーらの研究(Badgley,C., J.Moghtader, E.Quintero, E.Zakem, M.J.Chappell, K.Aviles-Vazquez, A.Samulon and I.Perfecto (2007) Organic agriculture and the global food supply. Renewable Agriculture and Food Systems: 22(2); 86-108. )を論拠にしている。しかし,この研究で示した途上国での慣行農業による単収が低すぎ,有機農業による単収が高すぎるとの批判が多く,一般的には承認されているとはいえない。
●ハーバー・ボッシュ法による窒素化学肥料の合成
ドイツのハーバー(Fritz Haber)は,高温・高圧の装置内で鉄触媒の存在下で窒素ガスと水素ガスを反応させて,アンモニア(NH3)を合成する実験室技術を開発した。そして,その特許を1908年に取得した。このアンモニアの工業的製造装置を開発したのが,ボッシュ(Carl Bosch)である。ボッシュの製造装置を使って,1913年に最初のアンモニア合成工場が稼働したのであった。そのため,このアンモニア製造の技術は,当時からハーバー・ボッシュ法と呼ばれていた。
ハーバーは,構成元素からのアンモニアの合成で,1918年にノーベル化学賞を受賞した。しかし,ボッシュのノーベル賞の受賞はこれよりも13年遅れた1931年である。つまり,ボッシュの受賞はアンモニアの合成についての受賞ではなく,高温高圧下で褐炭を水素化して合成燃料として液体炭化水素を製造する技術を開発したドイツのベルギウス(Friedrich Bergius)とともに,高圧化学合成技術の開発に対して贈られたものだったからである。因みに,1914年から1918年に第1次世界大戦が行なわれており,ハーバーのノーベル賞受賞は,実際には1919年に行なわれた。
なお,ノーベル化学賞の概要は,”All Nobel Prizes in Chemistry” を参照されたい。
●ハーバーのアンモニア合成技術特許取得100周年
2008年は,ハーバーがアンモニア合成技術の特許をとってから100年目に当たっていた。そのことから,EUではヨーロッパ科学財団(European Science Foundation: ESF)が中心になって,アンモニア固定技術のメリットとデメリットに関するシンポジウムを2006年に開催し,これに関連した研究報告が2008年頃に多く刊行された。そのなかで,EUでのシンポジウムで中心的役割を果たした,オランダの「エネルギー研究センター」のエリスマン(Erisman)の報告に基づいて,窒素化学肥料の果たしている役割を紹介する。
●世界人口の約半分は窒素化学肥料で生産された食料で支えられている
第1次世界大戦でのドイツの敗戦によって,ハーバー・ボッシュ反応によるアンモニアの製造技術が拡散して,窒素化学肥料の合成が先進国で行なわれるようになった。当初の窒素肥料は質もあまり良くなく,高価で,普及は遅かったが,第2次世界大戦後に世界的に広く普及するようになった。そして,Stewartら (2005) は,耕地1 haで扶養できる人数が,1908年と2008年の間に1.9人から4.3人に増加したと試算し,この増加は,主にハーバー・ボッシュの窒素によって可能になったとした(Stewart, W. M., Dibb, D. W., Johnston, A. E. & Smyth, T. J. (2005) The Contribution of Commercial Fertilizer Nutrients to Food Production. Agronomy Journal. 97, 1?6 )。
こうした経過を踏まえて,Erisman (2008)は,20世紀における世界人口の推移と,ハーバー・ボッシュ反応によって製造された窒素肥料で生産された食料を食べた人達が世界人口に占める割合の推移を試算して,図示している。その値をグラフから読み取ると,世界人口は,1920年の19億人が2008年に67億人に増加したのに対して,窒素肥料の合成がなかったとしたら,世界人口は2008年に32億人にすぎなかったとしている。そして,窒素肥料で生産された食料を食べた人達が世界人口に占める割合は,1920年に0.9%,1950年に8%,1974年に52%,2008年に48%と高まっているとした。
同様に,Smilは,20世紀末の時点で,世界人口の約40%が食料生産のための肥料投入に依存していると推計している(Smil, V. (2002) Nitrogen and Food Production: Proteins for Human Diets. Ambio 31, 126?131. )。
世界人口の急激な増加は,決して窒素肥料だけに起因するのではない。住民の上下水道など衛生設備の向上,医療技術の向上,化学合成農薬による病害虫防除技術の発展,多収品種の開発なども,貢献していることは疑いない。しかし,グアノやチリ硝石などの資源枯渇で乏しくなった窒素肥料の供給を潤沢にしたハーバー・ボッシュ反応が,20世紀における人口の増加に最も大きく貢献していることは疑いない。
●終わりに
世界には,食料の潤沢な国々と不足している国々との格差が存在している。こうした格差を是正する上でも,貧しい国々での食料増産が課題になっている。その際,化学肥料の多投が唯一の解決策であってはならない。窒素肥料は増収を可能にしたが,その利用効率はあまり高くはない。吸収されなかった窒素が環境に蓄積して,様々な障害を起こしている現実がある。
だからこそ,今よりも窒素の利用効率が高い栽培技術や,作物や家畜の食用にならなかった残渣の肥料としての循環利用などが,ますます大切になる。その際に,そうした循環利用を重視している有機農業は当然重要だが,有機農業だけで,世界人口を養う食料が確保できるはずがない。今でも世界人口の約半分が窒素肥料によって育った食料を食べているのだから,化学肥料をなくしたら,世界は大飢饉に襲われてしまう。食料増産と環境保全の両立を図る一層の技術開発と,そのための社会政策が必要となっている。