●問題の所在
肥料や家畜ふん尿として施用した窒素やリンのうち,作物に吸収されなかった余剰分がやがて農地から排出されて,水系の富栄養化を引き起こしている。このため,欧米では窒素に加えて,農地へのリンの投入を規制している(環境保全型農業レポート「No.144 欧米における農地へのリン投入規制の事例」)。その結果,欧米の多くの国々では,作物吸収量を超える余剰なリンの施用量が最近では激減している。例えば,2007-09年の農地ヘクタール当たりの余剰リン(P)量の平均値は,以前からのEU加盟の15か国では3 kg,アメリカ2 kgなどである。しかし,そのなかにあって,日本や韓国は厳しい規制を行なっておらず,相変わらず世界最高の余剰リンを生じ,日本49 kg,韓国46 kgとなっている(環境保全型農業レポート「No.232 OECDが2010年までの農業環境状態を公表」)。
では,欧米ではどのように農地へのリンの投入を規制しているのか。その事例として,アメリカの例を見てみよう。アメリカでは,Pインデックスという指標を用いて,圃場のリンが表面流去水によって土壌ごと表流水に運び込まれるリスクの程度を評価して,施用できるリン量を規制している。そして,リンの投入量だけでなく,表面流去水の発生しやすい地形や土壌の圃場については,不耕起栽培,圃場外縁へのグリーンベルトの設置,河川や湖沼の岸辺への牧草などを生やした緩衝帯の設置などを規定している(環境保全型農業レポート「No.144 欧米における農地へのリン投入規制の事例」)。
アメリカでは,チェサピーク湾集水域(注:集水域は流域ともいい,降水に由来する表流水の集まる範囲),ミシシッピー川集水域,フロリダの内陸と沿岸水,エリー湖集水域などが,アオコの異常発生などの富栄養化が深刻な水系であり,当然,NやPの投入規制や土壌保全的な農業方法を含む水質保全プログラムが,20年から30年間もの長い間実施されている。ところが,プログラム実施期間を経過しても,水質改善目標が達成されなかった。それは,過去に作物の吸収量を超えた余剰なリンが土壌に蓄積された後,十数年を経ても水系に運ばれて,少しずつ水溶性のイオンになって藻類の繁殖を引き起こしているためであった。こうした,過去に余剰に施用したリンによる富栄養化が,後述するように,数年以上遅れて長く続く問題が注目されている。
●レガシーリン(遺産P)
過去に投入して農地やそこから流出して水系などに蓄積しているリンを,レガシー(遺産:legacy)リン(P)と呼んでいる。このレガシーPについては,アメリカのシャープリー (A.N. Sharpley)のグループが多くの研究を実施している。
因みに,シャープリーは以前アメリカ農務省の研究所に所属した土壌研究者で,リンはいくら過剰に施肥しても土壌に吸着されて,農地外に流出しないと考えられていたのに対して,それは誤りであり,リンの施肥の適正化が必要なことを農業者に訴える啓蒙書を農務省から刊行した(A.N. Sharpley, T. Daniel, T. Sims, J. Lemunyon, R. Stevens, and R. Parry (1999) Agricultural Phosphorus and Eutrophication:2003年の第2版が入手可能)。このなかでシャープリーは,
『これまで永年にわたって,窒素に基づいた施肥管理が農業指導者によって広められてきた。農業者はリン問題をやっと認識したばかりである。多くの農業者は当惑し,科学者はリンの管理を強調せずに誤った指導をし,裏切りを行なってきたのではないかと感じていよう。』
と記している。こうした反省を踏まえ,シャープリーらはリン施肥と水質改善の問題を研究し続けている。
シャープリーらは多数の論文を刊行しているが,そのなかの1つ,下記論文によってレガシーPの概要を紹介する。
●集水域におけるリンの動きの概要
水に溶解したリンの最も一般的な形態は,反応性の強い陰イオンのリン酸である。リン酸は,土壌や水中の鉄やアルミニウムなどの陽イオンとの結合による難溶性化合物としての沈殿,固形物表面に露出している鉄やアルミニウムなどの陽イオンとの電気的結合による固形物表面への吸着とその後の固形物内部への取り込み,長期の風化過程におけるいろいろな無機物に囲まれた物理的封じ込めなどによって,固形物に保持されやすい(これらの固形物への保持を収着と総称する)。このため,リンは土壌や水系の溶液相に比べ,固相のほうにはるかに高い濃度で存在している。
土壌はリン酸を収着しやすい。リン酸を収着した土壌粒子は畑の侵食や水田での落水の際に,圃場外に排出されて排水路などを経て水系に流入する。土壌のリン収着飽和度が高まると,収着されずにイオン状態のリン酸が増える。リンの作物の吸収量をはるかに超えるリンを連年施用し続けていると,収着されないリン酸イオンの一部が,土層を下に浸透して地下水に流入し,イオン状態のまま,河川などの表流水に流入する。
水系に流入したリン酸イオンは,砂と石を主体とする河川であれば,土壌よりは固形物に収着される量は多くない。しかし,細かな土壌粒子が底に堆積した湖沼や河川であれば,リン酸イオンは土壌粒子などに収着される。固形物に収着されたリンが収着されたままであれば,藻類などに利用されないので,富栄養化は生じない。しかし,水系の底は酸素不足になりやすく,特に有機物を含む排水が流入した水系では,細菌による活発な有機物分解によって酸素が消費されて嫌気的になりやすい。そして,不溶性の3価の鉄が可溶性の2価鉄に還元され,それにともなって,不溶性の3価の鉄と結合していたリンがリン酸イオンとして少しずつ長年にわたって可溶化してくる。
レガシーPは,過去に作物の吸収量を超えて土壌に肥料や家畜ふん尿の形で施用した余剰なPが,土壌や水系で固形物に収着されて蓄積し,少しずつ長い期間にわたって溶解されてくるPということもできる。
作物が吸収可能な形態(可給態)のPが高レベルで集積した欧米の畑で,P施用を停止して表面流去水の濃度を低くするレベルにまで土壌P濃度を減らすには,土壌P蓄積の度合いによって,数十年あるいはそれ以上を要するとの試算がなされている。
●優良農業規範のレガシーPからみた功罪
アメリカやEUは,農業者が環境保全プログラムに参加して,その遂行に必要な経費や報奨金を支給されるためには,農業方法を具体的に国が定めた優良農業規範を守らなければならない。例えば,アメリカで土壌侵食が深刻な地帯での土壌保全プログラムに参加するには,不耕起栽培,圃場外縁へのグリーンベルトの設置,河川や湖沼の岸辺に牧草などを生やした緩衝帯の設置などを規定している。これらは,窒素や土砂の流出防止や生物多様性の保全に加えて,圃場近傍の水系へのリンの流出を削減する顕著な効果を持って有している。
しかし,リンについていえば,耕起せずにリン肥料を土壌表面に施用するだけなので,表面流去水によって慣行耕起よりもPのロス量を増やしやすい(Pロス量が慣行耕起よりも12%多いとの報告もある)。そして,植生緩衝帯は圃場から流出してきたPを収着した土壌粒子を捕捉するが,長い間そのままにしておくと,捕捉された土壌粒子が集積し,その結果,植生緩衝帯の表土にはもとの圃場よりも多くのPが含まれ(33%多いとの報告もある),植生緩衝帯から流出する表面流去水には,圃場からの表面流去水よりも多くのPが含まれる場合もある(18%多いとの報告もある)。このため,優良農業規範の保全対策を実施することによって,そこにPが集積して,その下流の水系に対するレガシーPの供給源になっているケースが少なくないことが指摘されている。
また,1920年代後半にアメリカのペンシルバニア州のサスケハナ川にダムが建設され,洪水を最小に抑えるとともに,Pの多い堆積物を沈降させ,チェサピーク湾へのPの流入を防止した。しかし,約85年後にはダムに蓄積されたレガシーPから溶解されたPが流出して,ダム下流の河川のPの供給源となっているとの報告もある。
●リン施用量削減による水質改善のモニタリングはどれだけの期間必要か
レガシーPが徐々に溶解して水系に供給されて藻類の繁殖を促すために,富栄養化がなかなか改善しない。因みに,春や夏の温度が高く,流れが少なくて,水中のミネラル濃度が高くなりやすいときが,リンに対する生物需要が最も大きいときである。このため,この時期のレガシーPからの溶存態の無機リン酸の供給が,富栄養化リスクの最も高いときである。
レガシーPの,長期間尾を引く影響のために,水質改善プログラムの改善効果は,10年程度のモニタリングでは,これまでのところ認められていない。40年を超えるモニタリングが必要との指摘がある。
●なぜレガシーPが増えたか
自然界では,生物地球化学的な元素循環によって供給される窒素,リン,カリウムやミネラルを用いて植物が生育し,それを動物が採食している。第二次世界大戦後に化学肥料が普及して,作物吸収量を上回るリン酸肥料が施用されたことが,レガシーPの増えた原因の1つである。
もう1つの原因は,耕種経営体と家畜生産経営体とが分離して,集約化と規模拡大が進んだことである。そして,家畜生産経営体は,耕種経営体が化学肥料を施用して生産した穀物を,濃厚飼料として家畜に給餌している。このため,家畜生産経営体には作物生産に再利用されない家畜ふん尿が滞留している。こうしてリンを始めとする養分の循環が崩壊して,レガシーPの蓄積が増大した。
●レガシーPとどう向き合うか
レガシーPが多量に蓄積した土壌では,Pを無施用にしても,水質改善効果がでるまでには短くて何年,長ければ何十年も要する。施肥の適正化に加えて,家畜ふん尿の循環利用の積極的推進,欧米の家畜生産経営体では,スラリーを貯留しているラグーン(池)の底のリン含量の高い堆積物の利用など,レガシーPの再利用もますます重要である。
●世界の代表的河川の集水域におけるリン収支の推移
では,世界の代表的河川の集水域ではリン収支はどのように推移してきているのか。この問題については,パワーズらの下記の論文が興味ある結果を示している。
A.分析対象にした3つの河川集水域
パワーズらはアメリカ,イギリスと中国の次の3つの河川を対象にして分析を行なった。
(1) アメリカのミシガン州,オハイオ州とインディアナ州を源流とする複数の河川が合流して五大湖の1つのエリー湖に注いでいるモーミー川流域の,作物生産と家畜生産の混在した農業を主体にした集水域1.6万km2。
(2) イギリスの農業と都市の混合したテムズ川流域で,ロンドン首都圏から北海への河口までの部分の集水域1.2万 km2。
(3) 急速な人口増加と経済開発が行なわれている中国最大の長江(揚子江)流域で, 作物生産と家畜生産と都市開発が行なわれて,中流域には巨大な三峡ダムが存在する集水域180万 km2。
B.分析方法
関係統計から,当該集水域(モーミー川集水域では1975年‐2010年,テムズ川集水域では1936‐2010年,長江集水域では1970‐2010年)における肥料Pの投入量,食料や飼料でのP搬出量および河川からのP搬出量などのデータを切り出した(食料や飼料でのP搬出量については生産量にP含有量を乗じて計算)。ただし,長江集水域については食料や飼料でのP搬出量は不明であり,入手できなかった。また,テムズ川集水域では,下水処理場からPの河川排出量などのデータを加えた。
C.主な結果
論文にあるグラフを転載できないので,グラフから読み取った数値を用いて,結果の概要を紹介する。
(1) 農業主体のモーミー川集水域全体では,年間の肥料P投入が1980年まで30キロトン強であったが,その後に急速に減少し,1988年には約20キロトンに低下した
(筆者注:この低下は,EUが過剰農産物を国際相場よりも安価に輸出して,アメリカの農産物輸出を侵蝕したためと推定される)。
その後は2010年までこの値の前後で増減を繰り返した。そして,生産された食料・飼料Pの搬出量は1975年頃の約10キロトンから増減を繰り返しつつ徐々に増加し,2010年には約15キロトンとなった。
そして,モーミー川の水に溶けて集水域の出口から排出されたP量は,年によって変動があるものの,全期間を通して年間1から4キロトンの範囲であった。
生産された食料・飼料と河川によって搬出されたPの総量は,1998年頃までは肥料Pによる投入量が搬出量を上回っていたが,それ以降は搬出量が投入量を上回った。
こうした結果は,1980年までに余剰に施用されたPが土壌に蓄積してレガシーPとなり,1988年以降に徐々に可溶化されて作物に利用されて食料・飼料の生産を維持していると理解できる。そして,集水域全体でのPの搬出総量が投入総量を上回るようになったのは,レガシーPが可溶化したためといえる。
(2) テムズ川集水域では,肥料Pの投入量は1940年に約5キロトンに過ぎなかったが,世界大戦の終了と同時に急激に増加して1949年には約14キロトンに増えた後減少し,1955年の約10キロトンを底にして再び増加して,1963年に再び約14キロトンに増加した。その後,オイルショックによる減少を含めて,減少し続けて2010年には約5キロトンとなった。
食料・飼料Pの搬出量は,1940年には約3.3キロトンに過ぎなかったが,肥料投入量の増加とともに増加し続け,1973年のオイルショック時の一時的減少があったものの,1988年には約8.8キロトンの最高値を示した。その後は値の振れが大きくなったが,肥料Pの投入量が激減しているにもかかわらず,2010年で約7.5キロトンであった。
テムズ川の水に溶けて集水域の出口から排出されたP量は,約0.5キロトンと少なく,その後1967年まではわずかに増えるだけであったが,1968年には約2.4キロトンに増え,ほぼそのレベルを2000年まで維持してから減少し,2010年には約0.5キロトンに低下した。
テムズ川集水域に投入されたPの総量は搬出総量よりも1988年までは多かったが,それ以降は搬入量が搬出量の方総投入量よりも多くなった。
こうした結果は,1988年までの高レベルの肥料Pの施用によって集水域にレガシーPが蓄積し,それが遅れて可溶化してきて,肥料Pの投入量が減少しても食料・飼料Pの生産量が維持され,さらに集水域からのPの搬出総量が投入総量を上回るようになったと理解される。
(3) 中国の長江集水域では,入手できたデータが限られていたが,集水域への肥料Pの投入量は,1970年に約160キロトンであったのが,年とともに直線的に増加して,2010年には1870キロトンとなった。そして,集水域の出口から長江によって搬出されたP量は,1970年に約220キロトンで,その後2000年頃までこのレベルを維持していたが,それ以降に減少してきている。
肥料P投入量が急激かつ長期に増えているにもかかわらず,河川の出口からの搬出量が増えていないのは,余剰なPが土壌や河川の底にレガシーPとして蓄積されているのに加えて,三峡ダムの建設によって,顆粒状Pがダムに捕捉されたためと理解される。
(4) 以上のように,集水域における農地への作物の吸収量を超えたPの施用が,自然のP循環を破壊した。そして,農地への余剰なP施用を継続することによって,集水域へのレガシーPの蓄積が数十年にわたって進む。これにともなって,集水域のP保持容量は次第に飽和されて,集水域から可動化されて河川に排出されるP量が次第に増える。農地へのP施用量が次第に減少するのにともなって,集水域のレガシーPの総蓄積量が次第に低下してゆく。
モーミー川集水域では,1990年以前はPの総投入量が総搬出量を超えて,レガシーPが集水域に蓄積したが,P投入量が減少してきたことを反映して,1990年代後半以降,全Pの投入量と搬出量は15〜20キロトン/年の間の共通値に向かって収斂している。今後はレガシーPがますます再可動化されて,全搬出量が全投入量を上回るようになると予想される。
テムズ川集水域では,Pの総投入量が1990年代までは総搬出量を大幅に超えており,長期にわたってPが蓄積され続けた。1990年代後半以降,テムズ川集水域からのPの総排出量が総投入量を若干超えた。そして,2000年代にはテムズ川からのP搬出総量は,下水処理場から排出される排水のP濃度が低下するとともに,肥料Pの投入量が26%減少したのに,食料・飼料Pの搬出量が22%増加した。このため,テムズ川集水域では,1998年頃から集水域のP総量がわずかながら減少に転じてきた。
長江集水域では,データがそろっていないが,肥料Pの投入量の急激な増加がいまなお続いており,集水域へのレガシーP の蓄積がなお続いている。こうした状況がなお続くと,集水域のP総量はやがてP保持容量を飽和させるようになり,レガシーP の再可動化によって河川に排出されるPが増えよう。
●おわりに
窒素に比べてリンは,集水域における移動が遅く,大気に揮散する量も少ない。このため,余剰Pの富栄養化などの環境影響は,窒素のように短期的にすぐには発現されない。しかし,レガシーPの動きによって数十年後まで環境影響を与え続けると考えられる。
日本には黒ボク土を始めとするPの収着力の大きな土壌が多い。このため,戦前は特に畑ではリンが制限要因になって,日本の農業生産力が低かった。戦後,熔リンの多量施用技術が開発されて,生産力が飛躍的に向上した。そして,「地力増進法」で定められた普通畑の基本的な改善目標として,P収着容量の大きな土壌でも可給態P含有量が乾土100 g当り100 mg P2O5以下と定められているのに,これを数倍も超えた可給態Pが蓄積した普通畑が非常に多い。そして,そうした土壌で相変わらず,作物の要求量を超えた余剰Pが施用され続けている。そうしても罰則は課せられない。こうした状況を放任し続けていては,水系の富栄養化が改善されるとは思えない。