●イギリスにおける下水汚泥利用の規制
下水汚泥の主成分は汚水の有機物を分解した微生物の死骸であり,死菌体は作物への窒素とリン酸の優れた供給源である。また,石灰で凝固させた汚泥は,酸性土壌の優れた改良材にもなる。しかし,汚泥には工場廃水などに由来する多量の重金属も含まれており,汚泥の農地還元では土壌の重金属汚染の可能性が問題になる。
イギリスは1998年末で下水汚泥の海洋投棄を禁止し,これにともなって下水汚泥の農地還元量が,乾物で1996/97年の52万トンから2005年には100万トンに増加した。平均施用量が6.5トン乾物/haなので,約15万haの農地に下水汚泥が施用されたことになる。
下水汚泥の施用によって人間や環境に悪影響が生じないように,イギリスは下水汚泥の農業利用に規制を行なっている。一つは,1989年に施行された汚泥の農業利用に関する法律によって,汚泥施用土壌の重金属濃度の上限値を定めている。これとともに,1996年に施行された環境省所管の汚泥の農業利用における優良農業行為規範によって,亜鉛については法的上限値よりも低い推奨上限値が設定されている。
これまでの研究で作物や土壌微生物への影響が特に問題になっているのは,亜鉛,銅,カドミウムであり,これら3つの重金属の規制値を表1に示す。一般に重金属は酸性が強いほど水に溶解し,中性やアルカリ性では不溶化するので,上限値は土壌pHによって変えられている。
また,硝酸指令によって,硝酸脆弱地帯内では他の資材を合わせて窒素施用量を年間250 kg N/ha以下にしなければならない。そして,水保護のための優良農業規範は下水汚泥の施用量を250 kg N/ha年を超えないように定めている。
●農地還元した下水汚泥の土壌影響に関するプロジェクト研究
下水汚泥の農地還元については既に多くの実験がある。しかし,汚泥の施用量,気象,土壌,作物などの実験条件が様々で,得られた結果の中には結論の一致しないものも多く,実験条件が異なるために,その原因を解明できないケースも多い。
こうした状況を踏まえて,イギリスのDEFRA(環境・農業・農村問題省)は,複数の研究所に委託して,必要な場合には,下水汚泥を安全にリサイクルするための科学的論拠を得ることを目的として,下水汚泥が農業生産力と土壌肥沃度に及ぼす影響を解析するプロジェクト研究を実施した。土壌や気象条件の異なる9か所の圃場で,材料や手法を統一して根気強く行なったプロジェクト研究である。実験方法の概要を以下に記載するが,面倒と思われる方はとばして,次の「汚泥重金属の土壌影響」の項に移られたい。
イングランド,ウェールズ,スコットランドに計9か所の実験サイトを設けて,実験材料と分析手法を統一して,1994年から2006年までの12年間にわたって実験を行なった(実験期間は第1期1994〜1998年,第2期1998年〜2002年,第3期2002〜2006年に区分)。参加した研究所は,ADAS(Agricultural Development and Advisory Service:農業開発アドバイスサービス),ロザムステッド研究所,WRc(Water Research Centre:水研究センター),マッコーリー研究所,SAC(Scottish Agricultural College:スコットランド農業カレッジ)で,研究資金はDEFRAの外に,環境庁,ウェールズ政府,スコットランド政府などから提供された。
プロジェクトでは既往の研究成果を踏まえて,研究対象の重金属を,作物や土壌微生物に影響を与える亜鉛,銅,カドミウムに絞り込んだ。そして,多数の下水汚泥を分析して,重金属に特には汚染されていない汚泥(重金属非汚染汚泥)に加えて,これらの重金属のどれかを他の重金属よりもはるかに多く含んだ3つの汚泥(特定重金属集積汚泥)を選定し,計4つの汚泥を大量に風乾した汚泥ケーキを貯蔵し,全実験サイトの共通材料とした。
特定重金属集積汚泥ケーキに当該重金属の硫酸塩を添加して,重金属レベルを4段階で異ならせた汚泥ケーキを作成した。そして,重金属非汚染汚泥ケーキと重金属添加汚泥ケーキを枠内土壌(1区6 ×8 m = 48 m2,3反復)に施用して,各区の土壌中の重金属濃度が4段階の目標値になるように汚泥ケーキを施用した。このとき,汚泥ケーキの施用の仕方が異なる2つの系列を作成した。一つは1994年から4年間だけ毎年夏期に汚泥を施用して重金属濃度を目標値に到達させた系列である。この系列では,実験サイトによって異なるが,表土の重金属濃度が,全亜鉛80〜580 mg/kg,全銅20〜310 mg/kg,全カドミウム0.5〜5.0 mg/kg土壌の範囲の土壌を調製することができた。しかし,この系列では,年間の重金属施用量が規則で定められた許容年間投入量(年間15 kg Zn/ha,7.5 kg Cu/ha,0.15 kg Cd/ha)を超えてしまう。そこで,特定重金属集積汚泥ケーキ(重金属塩を追加添加していない)を許容年間投入量の上限値で12年間毎年施用した系列も設けた。
各区の0〜25 cmの表土を毎年耕耘して汚泥が表土に均一に混和されるようにし,サイトの立地条件によって牧草(イタリアンライグラス)とコムギ(春播き)の交互作か,牧草だけを栽培した。
1997年10月,1999年春,2001年春/夏,2003年春,2005年春に土壌サンプルを採取して,土壌の重金属濃度,pH,呼吸速度,土壌バイオマス(微生物)炭素量,クローバ根粒菌数などを分析するとともに,作物収量,作物体中の重金属濃度などを分析した。
また,固形の汚泥ケーキと液状汚泥の違いがあるか否かを調べるために,3つの実験サイトで,重金属塩を異なるレベルで添加した液状汚泥を3年間施用した系列も設けた。
本プロジェクトの報告書は,暫定で,最終報告書ではないが,下記から入手できる。
ADAS, Rothamsted Research, WRc, the Macaulay Institute and SAC (2007) Effects of sewage sludge application to agricultural soils on soil microbial activity and the implications for agricultural productivity and lonf-term soil fertility: Phase III. Report Ref (SP0130; CSA 6222). 397p.
●汚泥重金属の土壌影響
(1) 3つの重金属のうち,微生物特性値(土壌バイオマス炭素,土壌呼吸速度,クローバ根粒菌数)に,より多くの実験サイトで影響を与えた重金属は,亜鉛>銅>カドミウムの順で,多くの土壌で,表土の亜鉛濃度や銅濃度は,その上昇とともに土壌バイオマス炭素とクローバ根粒菌数を減少させたが,土壌呼吸速度への影響は判然としなかった。
(2) つまり,各実験サイト別に,表土の全重金属濃度に対して微生物特性値をプロットすると,多くの実験サイトにおいて,全亜鉛濃度が上昇するとともに大部分の実験サイトで,また,全銅濃度が上昇するとともに半分程度の実験サイトで,土壌バイオマス炭素とクローバ根粒菌数が統計的(95%または99%レベルで)に有意に減少した。そして,全カドミウム濃度の上昇によってこれらの土壌微生物分析値が減少するケースも一部にはあったが,むしろ例外的であった(表2)。また,重金属濃度の上昇によって,土壌呼吸速度が一部の実験サイトで減少するケースや増加するケースも存在したが,全体としては,有意な影響は認められなかった。
(3) 表土の重金属濃度と土壌微生物特性値の間に有意な一次相関が存在した場合,土壌の重金属金属濃度が法的許容上限濃度(表1の土壌pHによる違いを無視して,亜鉛300 mg,銅135 mg,カドミウム3 mg/kg土壌とした)のときに,微生物特性値が対照区の値に対して何パーセント減少するかを数式から計算すると,土壌バイオマス炭素が,亜鉛と銅の法的許容上限濃度で平均20%減少した(表2)。
(4) また,表土の全亜鉛,全銅と全カドミウムの濃度が上昇すると,大部分の実験サイトで,コムギ子実中の当該重金属濃度が有意に上昇することが確認された。そして,EUは,穀物子実中のカドミウム濃度の上限値を0.235 mg/kg乾物に規定し,土壌の全カドミウム濃度の上限値を3 mg/kg乾土に規定している。pHが6.8よりも高い土壌でならば,土壌の全カドミウム濃度が3 mg/kg乾土以下であれば,コムギ子実のカドミウム濃度が0.235 mg/kg乾物を超えることはなかった。しかし,pHが6.8以下の土壌では,土壌の全カドミウム濃度が3 mg/kg乾土未満であっても,コムギ子実のカドミウム濃度が0.235 mg/kg乾物を超えるケースがあることがあった。土壌のカドミウム濃度の上限値の規定の仕方を見直す必要性が指摘された。
(5) 汚泥ケーキと液状汚泥での実験結果を比較すると,銅とカドミウムでは,表土の重金属濃度と微生物特性値の関係が,汚泥ケーキと液状汚泥で基本的に類似していた。他方,亜鉛の微生物特性値に対する影響は,液状汚泥では不明確であったが,汚泥ケーキの場合には明確であった。実験に使用した汚泥ケーキと液状汚泥を比較すると,有機物濃度は汚泥ケーキではるかに高い。汚泥ケーキでは亜鉛が有機物顆粒の内部や周囲に濃縮されて存在し,微生物が有機物を分解する際に,濃縮された亜鉛の毒性が発揮されると推定される。これに対して,銅やカドミウムは,亜鉛ほど有機物表面に濃縮された状態で存在しないため,汚泥ケーキと液状汚泥での結果にあまり差がないと推定される。これまで一般に有機物が重金属を吸着して,その毒性を弱めると考えられているが,これまでの常識と異なるメカニズムが推定された。
●波及効果
このプロジェクト研究から,イギリスは下水汚泥の重金属影響について,金と時間をかけてしっかりしたデータを作り,その上で下水汚泥の農地還元についての政策を見直そうとしている姿勢がうかがえる。日本もこうした姿勢を見習いたい。
また,土壌の重金属汚染について,日本はEUよりも規制がゆるく,畑地の銅や,畑地と水田の亜鉛については何らの規制もない。下水汚泥だけでなく,家畜ふん堆肥からも亜鉛や銅が投入されている。重金属に汚染された土壌の修復には時間と莫大な金がかかる。問題が深刻になる前に,日本も適正な規制を行なうためのデータ集積を体系的に行なう必要がある。
★EUの「硝酸指令」、わが国の「重金属問題」に関する技術大系の記事 → 検索