●必要だった減農薬
少し古いが,1993年に旧総務庁が農業環境保全行政監察を行なって,肥料の使用や土壌汚染の問題とともに,農薬の使用に関する行政の実態を調べ,その結果を1994年12月に公表した。その概要は,「行政総務週報」1745号5〜7ページ(1994年12月22日),および,「環境新聞」(1995年2月22日)に収録されている。
この行政監察で農薬使用については,「都道府県,普及センター,農協等が作成している農薬による防除基準や防除暦・栽培暦には(例えば,県レベルでは調査した11県の12防除基準中5防除基準において延べ31作物の80件で),農薬安全使用基準に照らして適合していないものが少なくない。」と指摘された。そして,「農薬の適正使用を推進するため,都道府県等の防除基準等を作成するに当たっては,農薬安全使用基準等に適合するものとなるように都道府県を指導するとともに,引き続き農薬の適正使用の確保を図ること。」が勧告された。
こ勧告は,防除基準や防除暦などには,農薬取締法に基づいた農薬使用基準を遵守せずに,使用基準を超える量の農薬散布などを指示しているものが少なくなく,国はせめて使用基準に準じた防除基準や防除暦などを作るように指導しろと述べたものである。
この当時,農業現場では,農業者が病害虫の発生状況を自分で確認せずに,防除暦に示された時期に指示された農薬を機械的に散布することが日常化していた。この機械的な農薬散布が経済的に無駄であるだけでなく,クモなどの天敵までも殺してかえって害虫の発生を助長させて被害を増やし,さらに野生生物保護の点でもマイナスとなっていることが,当時福岡県で農業改良普及員をされていた宇根 豊氏(現在,農と自然の研究所代表理事)によって指摘された。宇根氏は自ら工夫した「虫見板」で害虫の発生状況を確認して,農業者が農薬散布の必要性の有無を自ら判断することによって,不要な農薬散布を減らすことができることを示した。そのことを著書『減農薬稲作のすすめ』(擬百姓舎:1984年),「防除暦が百姓をダメにする」(『現代農業』.1986年1月号.212〜215ページ),著書『減農薬のイネつくり』(農文協:1987年)などで訴えた。この宇根氏の努力を契機に減農薬という言葉とその重要性が定着したといえよう。
●特別栽培農産物とエコファーマー農産物
農薬使用基準を守れば,農産物に付着する農薬残留量が人体に有害なレベルになることはないとはいえ,化学農薬や化学肥料を使用して生産された農産物の安全性に対する懸念が消費者の意識の中に根強く存在している。このため,化学農薬や化学肥料を使用しない有機農業や,農薬や肥料を減らした農業への関心も高まり,農林水産省は1992年に「有機農産物及び特別栽培農産物に係る表示ガイドライン」を制定した。この中で有機農産物とは別に,化学農薬や化学肥料の使用量を減らして栽培した農産物を「特別栽培農産物」と呼び,「減農薬栽培農産物」や「減化学肥料栽培農産物」などの区分を設けた。その後,2000年に有機農産物は「有機農産物の日本農林規格」で規制され,2001年に特別栽培農産物は「特別栽培農産物に係る表示ガイドライン」で規制されるようになった。ガイドラインは2003年に改正され,化学農薬の使用回数と化学肥料窒素の使用量の双方が同時に,当該地域の慣行の使用回数と使用量の5割以下の条件で生産された農産物だけを特別栽培農産物と呼ぶことに改正された。このため,減農薬栽培農産物や減化学肥料栽培農産物といった区分はなくなった。
また,「持続農業法」に基づいた持続性の高い農業生産方式を導入した農業者は「エコファーマー」と認定されている。エコファーマーが都道府県の定める「持続農業導入指針」に定められた栽培条件を守って生産した農産物には都道府県の定めたロゴマークを付けることができる。その栽培条件は,多くの場合,化学農薬の使用回数と化学肥料窒素の使用量の双方を同時に,当該地域の慣行の使用回数と使用量の7〜8割以下にすることとなっている。
●農薬取締の強化
農業環境保全行政監察は,防除基準や防除暦には農薬使用基準を守っていないものが少なくないことを指摘したものの,農薬使用の実態についての問題点を十分抽出できなかった。農薬の使用は,登録された適用作物や対象有害生物について承認されているが,2002年7月以降,登録対象外の作物に使用されたり,日本では作物に登録されていない農薬が違法に輸入されて使用されたりしている事例が立て続けに発覚した。このため,2002年と2003年に農薬取締法が改正され,農薬取締法の厳格な遵守が徹底された。
また,日本で「農薬取締法」に基づいて食品生産のために使用が認められた登録農薬数は約350だが,そのうち,食品中の残留基準があるのは194にすぎず,160弱の農薬には残留基準がない。このため,残留基準のない農薬の残留が食品から検出されたとしても,流通が規制されなかった。食品の安全性を確保するために,「食品衛生法」が改正されて,残留基準のない農薬などには,人の健康を損なうおそれのない一律基準値として0.01ppmを設定するなどのポジティブリスト制度が2006年5月から導入された(環境保全型農業レポート.No.31.残留農薬ポジティブリスト制度の導入)。
こうした農薬関係の規制強化によって,違反行為に対する監視が厳しくなった。
●減農薬は不必要な農薬散布を減らすこと
減農薬が食品や環境の安全性確保に有効だと評価されるのは,化学農薬によって病害虫や雑草を防除する化学的防除体系の下で,防除暦などにしたがって有害生物の発生レベルが低くて,必要のない農薬散布を減らした減農薬を行なっても,単収が確保される上に,食品と環境の安全が向上するからである。かつては農薬使用基準に適合していない農薬散布を指示している防除基準や防除暦があったり,農業者が登録されていない農薬を使用することがあったりして,農薬使用の適法性が疑わしいケースが少なくなかった。しかし,農薬取締法が強化された今日では,そうした違法行為はなくなり,適法だが,不必要な農薬散布を行なったとしても,農薬散布が農薬使用基準に準拠していることが担保されているはずである。
●IPMは減農薬とは別次元の概念
最近,IPMが盛んに登場する。農林水産省消費・安全局の植物防疫課は,2005年11月に病害虫,農薬などの分野の有識者からなるIPM検討会を発足させた。同検討会では,IPMを「総合的病害虫・雑草管理」と訳し,『総合的病害虫・雑草管理とは,利用可能なすべての防除技術を経済性を考慮しつつ慎重に検討し,病害虫・雑草の発生増加を抑えるための適切な手段を総合的に講じるものであり,これを通じ,人の健康に対するリスクと環境への負荷を軽減,あるいは最小の水準にとどめるものである。また,農業を取り巻く生態系の攪乱を可能な限り抑制することにより,生態系が有する病害虫及び雑草抑制機能を可能な限り活用し,安全で消費者に信頼される農作物の安定生産に資するものである。』と定義した(環境保全型農業レポート.No.18.総合的病害虫・雑草管理(IPM)実践指針案)。
IPMは,様々な防除技術を組み合わせて化学農薬使用量を減らして,食品と環境の安全性に対するリスクをできるだけ減らす防除体系なので,減農薬になることには変わりはない。しかし,端的にいえば,減農薬はもともと有害生物を防除する化学的防除体系のなかで,まず使用する化学農薬を選択して,その使用量削減の努力を行なうのに対して,IPMはまず化学農薬以外の防除技術を検討し,経済性などを考えたときに他の技術よりも化学農薬の方が妥当なら,農薬を選択するのであって,農薬の選択を後回しにする。
また,減農薬では,有害生物の発生状況を調べて,不必要な農薬散布を行わず,必要な農薬散布によって有害生物を防除する。しかし,今日のように農薬散布量を通常よりも大幅に減らすには,減農薬で使用した有害生物の発生状況調査だけでは不足であって,様々な農薬代替技術に関する知識を総動員する必要がある。つまり,IPMでは減農薬とは違った知識や技術も必要になる。
こうしたことから,IPMは減農薬とは別次元の概念といえる。しかし,最近では農家指導に使われる防除基準や防除暦には代替技術が組み込まれて,標準の農薬使用量自体がかつてよりも減ってきている。このため,現場には化学的防除一辺倒でなく,IPM的な防除が既に浸透してきているといえる。
●認知度が低いIPM
農林水産省消費・安全局の第6回IPM検討会が2007年6月11日に開催されたが,その際に,事務局が消費者,流通業者,農業者,農薬メーカのIPMについての意見をまとめた資料が提出された。
それによると,IPMという用語はあまり広くは認知されてなく,次の意見がだされた。
消費者団体からは,
・IPMを知らなかった
・消費者は「農薬=悪」というイメージをもっているので,農薬の使用が減るという点で良いので,もっと宣伝すべきではないか
・農水省には多くの施策があり,その中でIPMの具体的な位置づけを示すべきだ
・IPMという用語では認知できない,
などの意見がだされた。
流通関係者からは,
・減農薬だけを売りにしたブランドでは意味がない
・安全・安心,トレーサービリティ,環境配慮は当たり前で,その上で価格や品質の方向に向かっており,IPM農産物を何で評価するのか,収量か品質か農薬か,はっきりさせる必要がある
・食の安全の基準が高くなっており,個々の農家では対応できないので,地域でブランド化やマーク等の運動を展開する必要がある
・消費者は安全な農作物を知るために生産現場に行く努力していないので,消費者に教育して欲しい,
などの意見がだされた。
農業関係団体からは,
・消費者は,表向きは安全・安心と言うが,実際はきれい,安い,おいしいを買う
・指導は個々の農家でなく,産地単位で行わないと長続きしない
・農地・水・環境保全向上対策では,エコファーマーを要件としているが,エコファーマー農産物は減農薬を条件にしており,そこにどうIPMを組み込んでいくのか
・指導に当たっては,農薬使用を何割減らしたいのかをまず掲げ,そのためにはこういう技術を導入するというやり方になるのではないか,
などの意見がだされた。
●IPMの認知度を高める
IPMの概念はまず害虫防除の分野からだされ,FAO(国連食糧農業機関)は1966年にIPMの定義を行ない,1992年に農業生態系への影響も考慮に入れて,定義をし直している(第1回IPM検討会資料:我が国におけるIPMに向けた取組みの現状等について)。
世界的にはIPMの概念と呼称は既に一般的だが,日本では減農薬の用語が上述した経緯によって広く流布して,IPMの認知度が低い。減農薬とIPMは,農薬使用量を減らす点では同じ結果をもたらすが,そこに至るプロセスが全く異なる。日本では行政が,1992年の「有機農産物及び特別栽培農産物に係る表示ガイドライン」の制定の際,あるいは,それが無理であったら,2001年の「特別栽培農産物に係る表示ガイドライン」のなかに,農薬散布回数を50%以下にするという減農薬の記述だけでなく,減農薬を達成するために,IPMの必要性とその実践を記述しておくべきであったろう。今からでも,特別栽培農産物の表示ガイドラインや持続農業指針のなかにIPMを記述して,認知度を高めることが必要であろう。農林水産省はIPMの認知度を高めるために,IPMに関するフォーラムを農林水産省の講堂で開催する。