日本では井戸水の硝酸に起因した乳児のメトヘモグロビン血症が報告されていないと思っていたところ,その発症事例が筑波大学付属病院の小児科グループによって報告されていることを教えられたので紹介する。
文献は,田中淳子・堀米仁志・今井博則・森山伸子・齋藤久子・田島静子・中村了正・滝田齊 (1996) 井戸水が原因で高度のメトヘモグロビン血症を呈した1新生児例.小児科臨床.49: 1661-1665.
●患者の様子
患者は北関東の某農村地帯の新生男児で,出産時の体重は3,118gであった。出産直後には皮膚が青紫色になるチアノーゼ症状はなく,哺乳力も良好で日齢5日目に産院を退院した。自宅で煮沸した井戸水に溶かした粉ミルクを飲ませていたが,日齢10日目から哺乳力が低下し,呼吸に際して気道がぜいぜいと雑音を発する喘鳴が生じたため,日齢21日目に近くの医者に診せた。その結果,チアノーゼが生じ,体重増加も不良であったため,医者から筑波大学付属病院を紹介されて同日に入院した。入院前には止血効果のあるビタミンK2製剤のケイツーシロップ以外の薬は投与されていなかった。
入院時には全身に顕著なチアノーゼが生じ,異常呼吸(陥没呼吸)が認められ,血液分析で軽度の貧血と赤血球と白血球の上昇が認められた。下痢を起こしていたとの記載はない。動脈のpHは正常値よりも酸性で,ヘモグロビン組成は酸素飽和ヘモグロビン44.5%,メトヘモグロビン58.3%,一酸化炭素結合ヘモグロビン1.9%で,メトヘモグロビンが異常に高く,メトヘモグロビンを正常なヘモグロビンに戻すメトヘモグロビン還元酵素活性も正常値の1/2に低下していた。
●治療による改善
入院後にメチレンブルーを注射したところ,チアノーゼは5分以内に完全に消失し,メトヘモグロビンは1時間後に1.4%まで急速に低下した。その後,アスコルビン酸(ビタミンC)を静脈注射した後,リボフラビンを経口投与して,メトヘモグロビンは5%前後に維持された。日齢57日目に一時自宅に帰した。リボフラビンを経口投与させていたにもかかわらず,3日後に病院に戻ったときにはメトヘモグロビンが15.7%に上昇していた。この上昇は,病院の水道水では亜硝酸性窒素が検出されず,硝酸性窒素が0.66 mg/Lに過ぎなかったことから,リボフラビンの経口投与の継続で速やかに低下した。自宅で粉ミルク調製に使用していた井戸水を持参してもらい,これを煮沸して調製した粉ミルクを飲ませたところ,2日後にメトヘモグロビンが8.0%に上昇した。井戸水を検査したところ,亜硝酸性窒素は検出されず,硝酸性窒素が36.2 mg/Lであった。
こうした結果から,退院後に井戸水の使用を避け,リボフラビンの経口投与を続けるように指導した。患者の赤血球酵素活性は徐々に改善して,生後6か月目には正常な値となった。このことから,先天的なメトヘモグロビン還元酵素欠損のためにメトヘモグロビンが増加したのではないことが確認できた。この時点で投薬を中止したが,その後メトヘモグロビンは1%以下に保たれ,その後の体重増加や精神運動発達も正常となった。
●軽度のメトヘモグロビン血症が見逃されている可能性
田中ら(1996)によると,1996年以前に日本で報告された乳児の後天性メトヘモグロビン血症は50数例に達する。そのほとんどは解熱鎮痛剤のフェナセチン,貸しおむつに付着していたニトロベンゾールやアニリンまたは下痢に起因にするものであった。
今回の発症例は井戸水の硝酸に起因するものである。同じ井戸水を使用していた患者の家族の中で発症したのは,乳児だけであったように,乳児が特に発症しやすい。患者の家とその周辺の家の井戸水の硝酸性窒素濃度は0.1〜45.9 mg/L(平均18.0 mg/L)で,20戸中13戸の井戸水が水道法の基準である10 mg/Lを超えていた。硝酸は煮沸しても変化・揮散せず,返って濃縮されて濃度が高くなる危険もあるので,硝酸濃度の高い水を使用しないことが何よりも必要である。水道水を使用していて乳児がメトヘモグロビン血症になった事例はないが,硝酸濃度の高い井戸水ではこの例のような危険が存在する。チアノーゼが発症するのは,メトヘモグロビンが10〜30%に上昇してからであるため,そこに至らない軽度のメトヘモグロビン血症が見逃されている可能性があることを田中ら(1996)は指摘している。