指摘された環境支払チェックの難しさ
●EUの農業環境支払
EU(欧州連合)は農産物の過剰生産を抑制し,集約農業による環境汚染・破壊を軽減するために,1992年に「農業環境規則」を導入した。この法律は,伝統的農業が創出した農村景観,生物多様性や史的遺産の維持,並びに肥料や農薬などの投入資材による環境汚染の軽減に貢献する農法を5〜20年間実践することを契約した農業者に対して,その実践によって収量低下などで生ずる所得減収分を直接補償すること(環境保全目的の直接支払)を定めたものである。生産された農産物は市場価格で販売されるので,農産物価格を押し上げたり,外国産農産物を排除したりする効果は,価格保証に比べれば小さい。このため,環境保全目的の直接支払は1993年のウルグアイ・ラウンド農業協定で削減すべき農業補助金の対象外として認定された。
EUは第一期の農業環境対策事業を1993〜1999年に実施した。そのやり方は,加盟国が地方の実情に沿った具体的な事業案を,EUの執行機関である欧州委員会に申請する。欧州委員会によって計画案が承認されると,EUから事業費の50%または70%(2003年からは85%または60%)が支給され,残りを加盟国が負担する。加盟国は事業への参加者を公募し,参加者は国と契約を結ぶことになる。
農業環境対策事業は主に平場の農村を対象にしているが,中山間地には条件不利地域対策事業が別個に行われていた。2000年からは法律が改正されて,両者を一本化した農村計画事業の中で,第二期(2000〜2006年)の農業環境対策事業が実施されている。農業環境対策事業の加盟15か国での第二期の予算総額は134億8000万ユーロ(1兆8870億円)(2001年の平均支払額はha当たり89ユーロ(1.2万円強))に達し,農村計画対策事業で最大の予算となっている。
農業者が加盟国の定めている優良農業行為規範を守ることは当然で,農業環境対策事業は優良農業行為規範よりもさらに環境にやさしい農法を必ず含んでいる。したがって,EUは優良農業行為規範以上に環境を改善する農業者のサービスを購入しているともいえる。
この事業による環境保全目的の直接支払は,安価な外国産農産物輸入によって強く圧迫されている中小農家の離農防止に貢献していると評価されている。このため,同様に厳しい状況に追い込まれている日本でも,EUの環境保全目的の直接支払への関心が高い。日本ではいくつかの地方自治体が環境保全目的の直接支払を導入している。滋賀県の「環境こだわり農業推進条例」,兵庫県旧市島町(現丹波市)の有機農産物生産への直接支払制度,福岡県の「農の恵み事業」がその例である。
●EU会計監査院の会計監査
EU会計監査院は,農業環境対策事業における予算執行が適切であるか否かを,2004年3〜9月に欧州委員会と5加盟国(オーストリア,フランス,ドイツ,イタリア,ルクセンブルク)を訪問して監査し,その結果を2005年10月5日に公表した(欧州会計監査院:『農村開発に関する特別報告書 No.3/2005:農業環境支払の監査(ECA/05/09)』。
農業環境対策事業で支払を行う前提は,(1)事業計画案が環境の保護・保全に貢献することと,(2)事業に参加した農業者が契約事項を遵守したこととを確認できることであり,このことは法律に明記されている。このため,会計監査院は,計画案の書類審査段階と農業者の実践段階で,監督部局側が実際に上記2点を確認できているかを監査した。
●加盟国は有機農業のチェックを検査機関に丸投げ
有機農業基準に準拠した有機農業は農業環境対策事業の対象となっており,有機農業に転換しようとする農業者は農業環境対策事業から補助金を受けることができる。ただし,公的あるいは民間の検査組織(登録認定機関)によって,農業者は基準に準拠した生産を行っていることのチェックを毎年受けなければならない。そして,国は検査機関のチェック状況を監督し,その結果を欧州委員会に毎年報告することになっている。
会計監査の結果,検査機関の監督状況報告を提出していない加盟国が多く,提出された報告書のなかにも必要事項を記載していないものや,矛盾した記載を行っているものなど,ずさんなものが多いことが判明した。また,加盟国の多くは検査機関をチェックする際のマニュアルを作成しておらず,実際には検査機関のチェックをほとんど行っていない。このため,監査院は,農業者が有機農業を基準に従って正しく行ったかを国および欧州委員会が最終確認していないケースが多いことを指摘し,その改善を勧告した。
●農業環境対策事業のチェックは難しい
農業環境対策事業計画案はまず欧州委員会に提出され,その適格性が審査される。採択された後における農業者の契約事項の遵守状況は,抽出された5%の契約について現地でチェックされる。審査と現地チェックの両過程でチェックが難しいケースが多く,欧州委員会自体もこれまでに問題点を把握していながら,解決せずに放置していたと会計監査院に指摘された。チェックの難しい多くの事例が指摘されているが,その一部を紹介する。
(1)ルクセンブルクのように農業環境対策事業に参加する経営体は全ての農地で事業を実施することが要件になっているケースもある。しかし,多くの加盟国で毎年事業に参加する農地を追加でき,1筆ごとの契約内容を把握しにくくなっているケースが多い。
(2)契約書には遵守すべき基本的事項が記載されているが,具体性に欠けている。このため,検査員と農業者の双方とも何を要求されているかを具体的に理解してないケースが多くあり,要求内容の解釈が検査員で異なる場合も存在する。
(3)指定作物を栽培することが契約項目の場合には,指定作物が実際に栽培されているかを現地で観察すれば確認できるが,投入物を実際にある量以下にしたかは,作物の生育状況の観察や土壌分析でも分からないケースが多い。
(4)農業者は作業日誌をつける義務を有し,欧州委員会の検査のガイドラインは,作業日誌の記載内容を収量,伝票,土壌・作物体分析などとクロスチェックするように勧告している。しかし,多くの国は農業者の日誌や自己申告の裏付けをクロスチェックしていない。
(5)EUは穀物の多収穫に倒伏防止用の植物生育調節剤を使用しており,生育調節剤無使用が農業環境対策事業の対象になっている。これを草丈の視覚チェックで行っている。しかし,草丈は様々な要因によって変動し,生育調節剤の無使用のチェックとしては不十分であるなど,現地での視覚チェックには不十分なものが多い。
(6)現地チェックは契約事項の履行を確認するのに適切な時期に行うべきだが,そうでないケースが多く,また,1回だけでは不十分であっても,2回目を行うこともない。
(7)現地チェックのマニュアルはなく,検査員の経験と知見によって判断が異なる。
(8)土壌分析結果や養分収支を把握してチェックすべき項目が多いが,検査員は専門知識を持っていないため,十分なチェックがなされていない。
(9)景観要素の保全と管理」では,対象の樹木,用排水路等々を存続管理することが必要だが,景観要素の配置状況の記録がなく,存続管理を確認できず,契約事項の遂行やその検証には高レベルの自由度が存在しており,オーストリアが2005年から導入した航空写真の利用を図る必要がある。
(10)同一現地チェックが契約内容によって異なる複数の部署によって行われていて,部署によって指示が異なる場合もある。
こうした監査結果から,会計監査院は,農業環境対策事業のチェックは労働負担が大きく,高い専門知識と技能を要するにもかかわらず,素人の検査員がチェックできる容易な項目しかチェックされておらず,チェックがずさんであると結論している。きちんとチェックできることが農業環境対策事業支払の原則であり,欧州委員会,閣僚理事会及び欧州議会は,2007〜2013年の第三期の農業環境対策事業を提案する際には,一方で非遵守のリスクを,他方でこの事業の意義を考慮しながら,如何にこの原則を実行できるようにするかを検討すべきであると勧告している。これに対して欧州委員会は指摘点を改善するように,欧州委員会はチェックのためのガイドラインを具体化し,加盟国の行うチェックに遺漏がないように努めるとの回答を行っている。
●教訓
わが国では,2005年3月に「環境と調和のとれた農業生産活動規範(農業環境規範)」が通達され,農林水産省の各種補助金,交付金,資金,制度等の事業は,農業環境規範を実践する農業者に対して講じていくことになり,補助金を受けようとする農業者は,自らがその生産活動を点検して署名捺印した点検シートの写しを手続窓口に提出することが義務化された(環境保全型農業レポートNo.12 「農業生産活動規範とは」。この農業環境規範は生産性向上のために国が支援する経営体の守るべき条件であって,規範以上に環境にやさしい農法を行うことを条件にした環境保全目的の直接支払ではない。それはともかく,農業環境規範や自己申告による点検シートは,簡単すぎるほど簡単なものであり,農業者が規範を守っていることをEUのような意味で確認できるか疑問である。さりとて厳密にすると,EUのようにチェックに多大の労力とコストを要することになるであろう。チェックを行う行政職定員が今後とも削減されることが予測されるなかで,実のある環境保全型農業を推進する体制作りが大切になろう。