●生物多様性条約
「生物多様性」という用語が世界的に広く知られるようになったのは,1992年にブラジルのリオデジャネイロで開催された国連の環境と開発に関する特別総会(地球サミット)で定められた,21世紀に向けて世界各国が地球環境保護のために協力して行なうべき行動計画である「アジェンダ21」の第15章に,「生物多様性の保全」の重要性が取り上げられて以来のことである。
地球サミットでは,生物多様性の保全とその利用によって生じる利益の公正な分配などに関する国際的な取り決めを定めた生物多様性条約の条文が作成された。生物多様性条約は,地球サミット後に各国で国会承認などの所用の手続をへて,1993年12月に発効した。この条約において,「生物の多様性とは,すべての生物(陸上生態系,海洋その他の水界生態系,これらが複合した生態系,その他生息または生育の場のいかんを問わない)の間の変異性をいうものとし,種内の多様性,種間の多様性および生態系の多様性を含む。」と定義されている。
生物多様性条約は,第六条で,締約国に対して,「生物の多様性の保全および持続可能な利用を目的とする国家的な戦略もしくは計画を作成し」,「可能な限り,かつ適当な場合には,関連のある部門別のまたは部門にまたがる計画および政策にこれを組み入れること」を規定している。
●生物多様性条約に対する日本とEUの対応
日本は環境省が中心になり,関係府省の協力を得て,1995年に「生物多様性国家戦略」を策定し,2002年に見直しを行って「新生物多様性国家戦略」に改訂した。さらに2007年11月に「第三次生物多様性国家戦略」を策定した。
農林水産省は,これらの戦略の一部を担ってきているが,農業・林業・水産業における生物多様性への取組をより具体的に強化するために,2007年7月に「農林水産省生物多様性戦略」を策定した。
EUは,生物多様性の保全について古くから法律などを整備してきている。1979年に野鳥とその生息地の保護を目的とする「野鳥指令」(Council Directive 79/409/EEC on the conservation of wild birds)を施行し,1992年に野生動植物とその生息地の保全を目的とする「生息地指令」(Council Directive 92/43/EEC of 21 May 1992 on the conservation of natural habitats and of wild fauna and flora)を施行した。そして,1998年には「生物多様性戦略」(Communication of the European Commission to the Council and to the Parliament on a European Community Biodiversity Strategy. COM (98)42)を策定し,2006年に「2010年までに生物多様性の喪失を防止する行動計画」を策定した(Communication from the Commission: Halting the loss of biodiversity by 2010 – and beyond: Sustaining ecosystem services for human well-being. COM(2006) 216 final)。
●オーストリアとドイツ市民の生物多様性に対する認識が突出
EUの執行機関である欧州委員会の環境総局は,力を入れている環境施策の一つである生物多様性の保全に対して,EU市民がどのように理解しているかを外部機関に委託して世論調査した。調査は2007年11月20〜24日に,EU27か国の15歳以上のランダムに選んだ2万5000人を超える市民に電話でインタビューして行なった(European Commission (2007) Flash Eurobarometer Series. No.219. Attitudes of Europeans towards the issue of biodiversity. 要約版 :同詳細版 )。
世論調査では,まず生物多様性という言葉を聞いたことがあるかないか,聞いたことがある場合にはその意味を承知しているかを聞いた。EU27か国の平均で,生物多様性という言葉を聞いたことがあり,その意味も承知している者は35%,聞いたことはあるが,意味は分からないと回答した者が30%で,35%は言葉を聞いたことがないと回答した。この結果をみると,EU市民の生物多様性に対する認識は高いと思える。しかし,国別の結果をみると,生物多様性という言葉の意味も承知していた者の割合は,オーストリアとドイツで突出していて,この2か国の結果が平均値を押し上げていることが分かる(図1)。
●生物多様性の喪失の意味
調査では,上記の質問に次いで,回答者に対して,『生物学的多様性または生物多様性は,我々もその一部となっている生命のネットワークを構成している地球上の生命(植物,動物,海洋など)の多様性を意味している』と,生物多様性の概念の輪郭を説明してから,生物多様性の喪失(ロス)についての質問を続けた。
生物多様性の喪失が具体的に何を意味するかについて,EU市民は27か国の平均値として,「動植物がいなくなること」41%,「動植物が絶滅すること」20%,「自然生息地が減ること」18%,「自然公園のような自然遺産が減ること」14%,「森林が減ること」12%,「気候変動」11%,「大気や水の質に関連した問題」9%と回答した。この結果から,市民の大部分が,生物多様性の喪失を種に焦点を当てた概念,または自然生息地の変化に関連した概念として理解していることが示された。
●生物多様性喪失の原因
次に,生物多様性を喪失させている原因を複数示して,その中から最も重要と考える原因を一つ選択するように求めた。その結果,EU27か国の平均値として,「大気や水の汚染」27%,「原油流出,工場事故などの人的災害」27%,「気候変動」19%,「農業の集約化・森林伐採・魚の乱獲」13%,「土地利用の変更と開発(道路・住宅・工場等の建設)」8%,「外来動植物の導入」2%,「その他」1%,「無回答」3%であった。
●子供の世代までに生物多様性喪失の影響を受けると回答
では,自国における生物多様性の喪失,つまり,動植物種,自然生息地や生態系の減少や絶滅の可能性などを,市民はどの程度深刻に受け止めているのか?
EU27か国の平均で,88%が深刻とし(「非常に深刻」43%,「かなり深刻」45%),「深刻でない」は8%,「全く深刻性がない」は1%にすぎなかった。そして,国内で生物多様性の喪失が深刻とした回答割合は,国によって大きく異なった。フィンランド10%,エストニア11%,ラトビア15%,デンマーク18%などで低かった。他方,ギリシャ70%,ポルトガルとルーマニア67%,ブルガリア61%,キプロス58%,イタリア57%などで高かった。意見の違いは,国における環境問題の深刻さを反映していると理解される。
他方,自国内でよりも世界レベルの生物多様性喪失の方が深刻であるとする者が多く,EU27か国の平均で,70%が「非常に深刻」,25%が「かなり深刻」とした。
生物多様性喪失が現在の時点で回答者自らに影響を与えていると回答した者は,EUの平均で19%にすぎず,EU市民の大部分は生物多様性喪失の影響が直ぐに自分に及んでいるとは見ていなかった。しかし,ポルトガル,ギリシャ,ルーマニアなど,自国内で生物多様性の喪失が深刻とした回答割合の高かった国では,現在の時点でも生物多様性喪失の影響が回答者自らに及んでいるとの回答割合が高かった(図2)。
EU平均では,回答者の35%が近い将来に自分の世代に生物多様性喪失の影響を受けると予想し,同率35%の者が,自分の世代に影響を受けるとは思わないが,子供達の世代は生物多様性喪失ロスの影響を受けると予想していた。
●生物多様性の喪失をなぜ止めなければならないか?
生物多様性の喪失を止めることが大切である理由として4項目を提示して,それぞれの是非を質問している。その結果,多数の者が全ての理由について賛成であると回答した(表1)。
各項目について回答者が大いに賛成とした割合は,「自然を守る責任があるので,倫理的義務である」が61%,「市民の福祉や生活の質ならびにレクリエーションや楽しみは自然や生物多様性のおかげである」が55%,「食料,燃料,医薬品などの生産に不可欠である」が50%,「生物多様性の喪失によってヨーロッパ経済が疲弊してしまう」が44%に達した。
●生物多様性についての情報をどこからえているか?
全てのEU加盟国で,テレビのニュースやドキュメント,インターネット検索,新聞および雑誌の記事が,生物多様性ロスの原因などの生物多様性に関する主要な情報源であった。その内訳は,テレビが52%,インターネット検索が42%,新聞や雑誌が33%であった。
●日本での世論調査
日本では,内閣府大臣官房政府広報室が2006年に,「自然の保護と利用に関する世論調査」を外部機関に委託して,個別面接聴取によって調査している(全国を対象に有効回答数1,834人)。生物多様性を自然あるいは野生生物と同義語にしていて,生物多様性の意味や意義がEUのように広くはない。そのなかで,野生生物の保護と対策について,「多種多様な生物が生息できる環境の保全についての意識」と「多種多様な生物が生息できる環境の保全に必要な対策」を調査した。
多種多様な生物が生息できる環境の保全について,「人間の生活の豊かさや便利さを確保するためには,多種多様な生物が生息できる環境が失われてもやむを得ない」と回答した者は3%とごくわずかで,56%は「人間の生活が制約されない程度に,多種多様な生物が生息できる環境の保全を進める」と回答し,37%が「人間の生活がある程度制約されても,多種多様な生物が生息できる環境の保全を優先する」と回答した。そして,大都市には環境保全を優先すべしとする者が町村より多く,町村には人間の生活が制約されない範囲の環境保全を求める者が大都市よりも多かった(表2)。これは,野生鳥獣による害を現実に受けているかいないかの違いを反映していると推察される。
どのような対策が必要かについて,記載された項目から2つまでの複数回答を求めたところ,「生息地の改善」,「生息地の開発規制」,「整備事業での野生生物の生息状況配慮」がそれぞれ30%強であったが,これに次いで「農薬や化学肥料の使用を少なくするなど生物の生息に配慮した農林業を進める」(27.8%)がランクされ,集約農業の影響への関心も高いことが注目された(表3)。
●農業における生物多様性の保全
今日,農業は生物多様性の喪失を加速させている要因としてしか理解されないことが多い。しかし,農業の集約化が急速に進行したのは,世界的に第二次世界大戦後であって,日本では高度経済成長の始まった1960年頃以降である。それまでの数千年あるいはそれ以上ににわたるゆっくりと発展した粗放的な農業は,野生生物に森林や自然草地などとは異なった新しい生息環境を創りだし,そこに適応した野生生物を定着させ,生物多様性の向上に貢献してきた。
例えば,用水路によって河川や湖沼とつながった水田が,メダカ,ナマズ,カエル,ホタルなどの水生動物の繁殖の場として機能したこと,麦などの冬作物を栽培した畑が春先のヒバリの繁殖地として機能したこと,堆肥材料や薪炭材料を採取することによって植物遷移を止められ,林床の開けた里山林が身近な野生動植物の繁殖地として機能したことなど,その例は多い。長い時代にわたって毎年繰り返された農作業によって創られた本来の自然にはない環境が安定的に存在したことが,生物多様性を豊かにするのに貢献してきたのである。そうした農の営みと環境との永続的なかかわりからみても,農業が生物多様性の保全に貢献するには,伝統的な農業の創ってきた環境を復元・維持し,農業環境を汚染したり破壊したりしないことが基本である。農業における生物多様性の保全では,希少生物を隔離された環境で繁殖させることよりも,希少生物を含めて,身近な生き物が生きてきた環境を保全することの方が大切である。
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