●硝酸指令
EU(欧州連合)は,農業から排出された硝酸による地下水および表流水(河川,湖沼や河口)の汚染を削減・防止するために,1991年に「硝酸指令」(「農業起源の硝酸による汚染からの水系の保護に関する閣僚理事会指令(91/676/EEC)」)を公布した。
加盟国は,国全体の地下水と地表水の水質をモニタリングし,(a) 硝酸(NO3)が25 mg/L以上かそうなる危険性の高い地表水,(b) NO3が50 mg/L(NO3-Nで11.3 mg/L)以上かそうなる危険性の高い地下水,(c) 富栄養化(アオコの発生など)しているかそうなる危険性の高い地表水を確認し,これらが存在する集水域内の全ての土地を脆弱地帯として指定する(国全体を脆弱地帯に指定してもよい)。
脆弱地帯外の農業者には,国の定めた硝酸汚染防止のための優良農業規範を自主的に守ることを要請する。一方,脆弱地帯内の農業者には,優良農業規範よりも厳しい行動計画を守ることを義務として課す。
行動計画は,(a) 窒素の総投入量(家畜ふん尿+化学肥料)を,土壌やその他からの供給量も考慮して,作物要求に合わせ,適正施肥を行うこと,(b) 家畜ふん尿の最大還元量を170 kg N/haにすること,(c) 作物の生育できない冬期間における家畜ふん尿の施用を禁止し,その間のふん尿を貯留できる施設を整備すること,(d) 地下水や地表水を汚染しやすい場所や時期に,肥料やきゅう肥を施用しないことなどについて,加盟国が策定する。加盟国は,水質のモニタリング結果を含め,4年ごとに硝酸指令の実施状況を,EUの執行機関である欧州委員会に報告する。
欧州委員会は独自の調査結果との照合を含め,加盟国の報告書をチェックし,硝酸指令への違反があると,加盟国に警告し,加盟国がしたがわない場合には,改善命令を発し,最終的には欧州司法裁判所に告訴する。司法裁判所の判決は絶対である。
●加盟国のこれまでの対応
欧州委員会は,加盟国から提出された報告書をまとめて硝酸指令実施状況報告書を公表しており,これまでに第1回(1992〜1995年),第2回(1996〜1999年),第3回(2000〜2003年)の報告書を公表した。硝酸指令による規制が施行されてからの報告は,実質的に第2回報告書からである (European Commission: Implementation of Council Directive 91/676/EEC concerning the protection of waters against pollution caused by nitrates from agricultural sources. Synthesis from year 2000 Member States reports. COM(2002) 407 final) 。第3回報告書は2007年3月に公表された(Report from the Commission to the Council and the European Parliament on implementation of Council Directive 91/676/EEC concerning the protection of waters against pollution caused by nitrates from agricultural sources for the period 2000-2003. COM(2007) 120 final)。
硝酸指令を厳格に守ると,家畜飼養密度が極端に高い地域では家畜頭数を大幅に削減するとともに,飼料作物生産圃場へのふん尿還元量を減らし,スラリー貯留施設の増設に多額を出費するなど,国内農業に大混乱が生ずることが懸念された。このため,第2回報告書をみると,法律をきちんと守ったのはデンマークだけで,他の加盟国は違法を承知の上で,法律に決められた施行期限を意図的に遅らせてきたことがうかがえる。しかし,第3回報告書をみると,欧州委員会の監視・制裁措置が進み,それ以前に比べて加盟国の実施状況が大幅に改善されたことがうかがえる。
●イングランドの違反行為
過去における違反の代表格はイングランドとオランダであったといえよう。
イングランドは,飲料水源として使用している水源に限定して,硝酸脆弱地帯を指定していた。硝酸指令では,飲料水源に限定せず,汚染された全ての地下水や表流水を含む集水域を脆弱地帯に指定しなければならない。欧州委員会はイングランドが改善命令にしたがわないため,司法裁判所に告訴した。2000年12月に司法裁判所は,イングランドが法律違反であり,判決にしたがわない場合には毎年5,000万ポンド(90億円強)の罰金を支払うことを命じた。イングランドは硝酸指令にしたがって脆弱地帯を指定すると,それまで指定していたイングランドの農地の8 %から大幅に増え,55 %を指定しなければならなくなる。そして,脆弱地帯を拡大することによって,スラリー散布禁止期間中のふん尿貯留施設の増設などに支給する補助金などに新たな経費を必要としたが,その年間経費は,法律にしたがわない場合の罰金の約半分(45億円程度)ですむと試算された。イングランドは国民から寄せられた意見を踏まえて,2002年12月から法律に準拠して硝酸脆弱地帯を大幅に拡大した。
●オランダの違反行為
オランダでは集約的な家畜生産が盛んで,トウモロコシ畑や牧草地に莫大な量のふん尿を還元し,以前から環境保全の観点から問題になっていた。硝酸指令に先立ってオランダは1987年に家畜ふん尿施用基準を設定したが,ふん尿量をリン酸含量によって表示した。リン酸量で施用基準を作成したのは,作物に吸収されなかった家畜ふん尿中のリン酸は土壌に蓄積されて,土壌分析によってどれだけのふん尿が農地に施用されたかを後から確認しやすいためとされた。当時の施用基準は,家畜ふん尿が過剰という実態を反映して,今日の水準からすれば,信じられないほどの多量施用を認めたものであった。
他方,1991年に施行された硝酸指令は,窒素量で家畜ふん尿の施用量を定めることを要求している。オランダは,窒素量に基づいた家畜ふん尿施用基準を導入するのを遅らせ,導入したのは1998年であった。しかも,面積当たりの窒素投入量に基づいた家畜ふん尿施用基準とせず,農場ごとの窒素の投入量(肥料,飼料,購入家畜などの窒素の総量)と搬出量(販売した家畜・畜産物,販売・譲渡した家畜ふん尿などの窒素の総量)の差によって,施用基準を策定した。この計算方式だと,窒素投入量から搬出量を差し引くので,投入量だけで規定する硝酸性指令よりは投入量を増やせる巧妙な便法であった。
欧州委員会は2000年にオランダを司法裁判所に告訴し,司法裁判所は2003年に違法の判決を出した。オランダはこの判決を予測し,2001年に,一部のケースでは投入量を170 kg N/ha以下にできないものの,窒素量による家畜ふん尿施用基準を作成し,2002年から実施して段階的に基準を強化する方針を打ち出した。そして,2004年に欧州委員会との間で,2006年から硝酸指令にしたがった施用基準を施行することを約束し,2005年4月に施用基準の改定を含め,不備のあった行動計画も改定した。
●オランダの新しい家畜ふん尿施用基準
参考までにオランダの新しい施用基準を,第三次行動計画から紹介する(Third Dutch Action Programme (2004-2009) Concerning the Nitrates Directive, 91/676/EEC. )。
家畜ふん尿施用量を窒素で年間170 kg/ha以下とした。ただし,ふん尿還元可能農地の70%以上を草地が占めている牛農場だけは,家畜ふん尿施用量を年間250 kg N/ha以下とした。この例外措置(逸脱)は,後述するように,2005年12月に欧州委員会の正式承認を受けた(Commission Decision of 8 December 2005 granting a derogation requested by the Netherlands pursuant to Council Directive 91/676/EEC concerning the protection of waters against pollution caused by nitrates from agricultural sources )。
オランダは,化学肥料と家畜ふん尿を合わせた窒素の適正施用を確保するために,窒素の総投入量の上限値を設定した(表1)。家畜ふん尿の窒素を170 kg/haとした場合は,表1の値と170 kg/haの差が化学肥料で投入可能な窒素量となる。
窒素と同時にリン酸の施用基準も設けており(表2),窒素とリン酸の施用基準を同時に満たすことが要求される。このため,リン酸含量の高い豚スラリーだと,リン酸施用基準に制限されて,還元可能なふん尿量が140 kg N/haを超えることは通常ない。
●家畜ふん尿負荷の状況
第2回報告時(1996〜1999年)に比べると,2000〜2003年にはEU(15)で,肥料消費量が窒素6%,リン酸15%減少した。そして,豚の頭数は安定していたが,牛,羊,家禽の頭数が減少し,全体でふん尿窒素負荷量が5%減少した。
地域別の家畜ふん尿窒素の還元量を計算した結果をみると,ベルギー(フランドル地方)とオランダが年間170 kg/haを超え,ローカルにはイタリア,フランス(ブルターニュ),スペイン,ポルトガルにもそうした地域がある。還元量が120〜170 kg/haの地域は,デンマーク,イギリス(イングランド),アイルランドのいくつかのカウンティ(*カウンティの説明をお願いします),南ドイツである(図1)。
これらの地域全てで,家畜ふん尿からのリン酸還元量が年間ha当たり90 kg超に達しており,窒素およびリン酸の総施用量(家畜ふん尿+化学肥料)は,窒素で年間240 kg/ha,リン酸で年間90 kg/haを超えている。
EU(15)と,加盟国が拡大したEU(25)の養分負荷や水系の硝酸濃度の分布に関する各種のマップが第3回報告書の付属書に描かれているので,参照頂きたい(Commission of the European Communities (2007) Annexes to the Report from the Commission to the Council and the European Parliament on implementation of Council Directive 91/676/EEC concerning the protection of waters against pollution caused by nitrates from agricultural sources for the period 2000-2003. )。
●表流水の硝酸汚染の状況
いくつかの加盟国(ベルギー,ドイツ,デンマーク,フィンランド,フランス,ルクセンブルク,オランダ,イギリス)の報告書は,表流水への窒素負荷に対する農業の割合を試算しており,その平均は約62%を占めていた(最小のポルトガル18%から最大のデンマーク97%まで分布)。都市下水や工業排水を高次処理している国では,これらの汚染源からの窒素負荷が劇的に減少した結果,農業による負荷割合が高くなった(環境保全型農業レポート「No.48 EUでは農業が水質汚染の主因」/nisio/?p=1330も参照)。
EU(15)全体ではモニタリングステーションの2.5%が50 mg NO3/Lを超え,4%が40-50 mg NO3/Lであった。50 mg NO3/Lを超えた割合が高かったのは,イギリス4.5%,フランス2%,オランダ1.2%であった。そして,25 mg NO3/Lを超えたモニタリングステーションの割合が高かったのは,イギリス,デンマーク,オランダ,ベルギー(フランダース),フランス北西部の農村地帯であった。
●地下水の硝酸汚染の状況
地下水の硝酸濃度は,1996〜1999年に比べると,EU(15)全体では,安定および低下傾向を示したモニタリングステーションが増えて64%に達したが,36%のモニタリングステーションでは硝酸濃度が増加傾向を示した。そして,硝酸濃度が50 mg NO3/Lを超えたのが17%,40-50 mg/NO3/Lが7%,25-40 mg NO3/Lが15%であった。
50 mg NO3/Lを超えたモニタリングステーションの割合が高かったのは,ベルギー(フランダース),オランダ,ポルトガル,スペイン,ルクセンブルクで,国土全体のモニタリングステーションの60から20%が50 mg NO3/Lを超えた。ドイツとフィンランドでは農地でのモニタリングステーションで50 mg NO3/Lを超える割合が高かった。フランスとイギリス(イングランド)では,40 mg NO3/Lの閾値を超えたステーションの割合が20%を超えた。
●硝酸脆弱地帯の指定
EU15か国のうちの7か国が,国土全体を硝酸脆弱地帯として,行動計画を国土全体に適用させている(以前からのオーストリア,デンマーク,フィンランド,ドイツ,ルクセンブルク,オランダに加えて,アイルランドが2003年3月から国土全体を硝酸脆弱地帯に指定)。
その他の国は国土の一部を脆弱地帯に指定しているが,1999年以降,いくつかの国が硝酸脆弱地帯の面積を大幅に増やした。
イギリス:国土の2.4%から32.8%
スペイン:5%から11%
イタリア:2%から6%
スウェーデン:9%から15%
ベルギー:5.8%から24%
こうした結果,EU(15)全体で硝酸脆弱地帯として指定された面積は,1999年の35.5%から2003年末に44%に増加した。ただし,加盟国のなかには脆弱地帯としての指定が不十分なケースがなお存在している。例えば,スペイン南部のアルメリア地方のRambla de Moj?carを脆弱地帯に指定していないのは硝酸指令違反であると,欧州司法裁判所が2005年に判決したにもかかわらず,何らの措置も講じていないとして,欧州委員会が2006年12月に最終警告書を発信したりしている。
●行動計画
硝酸指令は,1995年12月20日までに硝酸脆弱地帯の農業者が守るべき行動計画を策定することを規定している。行動計画の策定がこの期限よりも遅れた国が少なくなかったが,アイルランドを除く全加盟国は,2003年末までに遅ればせながら,1つあるいは複数の行動計画を策定した。アイルランドは2006年に行動計画をやっと策定した。しかし,加盟国の策定した行動計画のなかには,まだ硝酸指令に正しくしたがっていない部分があるものもあるとして,欧州委員会から指摘されているケースもある。
●家畜ふん尿施用量規制の例外規定
硝酸指令は,家畜ふん尿還元量を年間170 kg N/ha以下にすることを規定している。しかし,窒素吸収能の高い作物を長い期間にわたって栽培したり,正味の降水量(蒸発散量との差)が多くて,溶脱する硝酸濃度が希釈されたり,極端なほど脱窒能の高い土壌の場合には,欧州委員会の承認をえれば,年間170 kg N/haを超える家畜ふん尿を還元できるとする例外規定を定めている。
例外規定が認められるには,硝酸脆弱地帯の指定と行動計画が硝酸指令に完全に適合していることが前提であり,これらについて欧州委員会からクレームを付けられている限り,例外規定は認められない。加盟国から申請された例外規定は,硝酸指令で規定された「硝酸規則委員会」の了承がえられた後に欧州委員会で決定され,4年間ごとの行動計画の期間に限って認められる(延長が必要な場合は再度申請する)。これまでに下記4か国が認められている。
デンマーク:牛農場の家畜ふん尿窒素を年間230 kg N/haまでとする。
オランダ:放牧家畜のふん尿窒素を年間250 kg N/haまでとする。
オーストリア:牛農場の家畜ふん尿窒素を年間230 kg N/haまでとする。
ドイツ:牛農場の家畜ふん尿窒素を年間230 kg N/haまでとする。
●新加盟国の硝酸指令の実施状況
硝酸指令は新加盟10か国でも施行されている。既に新加盟国は,硝酸指令の自国法律への書き換えを終え,水質モニタリングネットワークを運用し,硝酸脆弱地帯を指定している。新加盟国のうちの3か国(マルタ,スロベニア,リトアニア)は,国土全体を脆弱地帯に指定し,残りの7加盟国が国土の2.5%(ポーランド)から48%(ハンガリー)までの硝酸脆弱地帯を指定した。新加盟国は行動計画を現在策定しており,欧州委員会が脆弱地帯指定と行動計画の硝酸指令に対する遵守状況を分析している。