No.27 福岡県「農の恵み事業」

「県民と育む『農の恵み』モデル事業」への期待

 2005年4月から福岡県は「県民と育む『農の恵み』モデル事業」を開始した。そして,2005年7月に刊行した「平成16年度福岡県食料・農業・農村の動向」(県農業白書)の中でも,この事業の概要を紹介している。しかし,その記載は詳しくなく,福岡県のホームページは元資料をあまり提供していないので,詳細を知ることが難しい。福岡県議会議事録や他のホームページ,『現代農業』2005年11月号の記事(宇根 豊:福岡型環境支払いが切り開く世界。p.356-357。山田修嗣:福岡園の「農の恵みモデル事業」とは。p.358-359)などから得た情報を整理して紹介する。

●「農の恵み事業」の概要

 福岡県は2004年度に,農家が営む農業によって維持されている農業生態系や景観など保全に対価を支払う直接支払制度の創設について,農政部に設けられたプロジェクトチームで検討を行った。そして,制度の創設については,県民や世論の合意が必要であるとの知事の意向から,合意を得る方策として,まず調査事業として,「県民と育む『農の恵み』モデル事業」を2005年から開始することにして,2005年度予算に調査事業費を組みこんだ。
 この事業は,2005〜2007年の3年間にわたって,慣行栽培の水田地区と減農薬栽培の水田地区について,農薬投入量,土壌,水質,生息生物などを調査し,栽培方法と環境負荷の関係を解析して,「環境支払」の指標となる生物種などの基準を策定するものである。この結果を踏まえて,2008年度から環境保全目的の直接支払制度を導入する予定である。
 2005年3月に2005年度予算が成立したことを受けて,調査対象のモデル地区を4月に公募した。当初は12地区を想定したようだが,15地区から応募があり,14地区が採択された。調査は,農業者,研究者,学生,NPO関係者,市民からなる「農の恵み調査隊」(モニター)が行うが,これも公募し,県の当初予定100名の半分の47名の応募があった。調査隊員には専門家の入ったワーキンググループが調査方法の指導を行っている。調査は年3回(田植え後15日目,田植え後30日目,出穂期)行う。調査事業対象農家には,水稲の減農薬栽培,生き物調査の実施,作業日誌の作成が義務づけられ,10a当たり5,000円が支払われる。これは減農薬栽培のかかり増し経費とされている。

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●「農の恵み事業」の背景

 「水稲の減農薬栽培」と「生き物」がキーワードになっていることから分かるように,『農の恵み』事業は,福岡県に所在するNPOの「農と自然の研究所」の宇根豊代表理事のこれまでの蓄積と考えが中心支柱になっている。2003年6月に宇根代表理事を始め,9つの環境農業NPO団体の代表が、当時の亀井善之農林水産大臣に農業(水田,畑,果樹での耕種農業と畜産)が果たしている公益的機能について直接支払を行う政策提言を行った。この提言のうち,水田の減農薬栽培に限定した部分を核として福岡県の「農の恵み事業」が発足したといえる。
 福岡県としては,昨今の厳しい農業情勢の中で,県の農業・農村の振興を図り,競争力のある農業を育てるとともに,環境に配慮した農業を進めるために,農業の持つ公益的機能を県民に理解してもらうために,この事業を計画し,次の段階で環境支払を導入して,農業者を支援したいと考えていると理解できる。

●本格導入の際の問題点

 減農薬の特別栽培米による販売ルートの拡大・米価の維持・向上に加え,生物多様性の富化を対象にした点では日本最初の支払を行って,米価下落によって農業所得が低下している水田農業者を支援できる制度が次の段階で実施されることが期待される。
 しかし,調査事業の「農の恵み事業」の次の段階で導入する環境保全目的の直接支払制度をどのような枠組にするかと財源が問題となろう。財政が豊かな時代なら新規予算も認められやすいが,福岡県でも2005年度予算で328億円の財源不足が生じて,県債の発行や基金の取り崩しによって穴埋めしており,調査事業よりもはるかに多額を要する直接支払制度を導入する際には改めて是非が論議されることが予想される。
 EUやアメリカが環境保全目的の直接支払を行っている理由や実施できている理由として,次を指摘することができよう。

(a)農業所得が低下して離農する農家が増加し,国の農業政策や社会政策として農業者が農業を継続するには支援が必要になっている。
(b)消費ニーズに合った安全・安心な農産物生産に誘導することが必要になっている。
(c)農業による深刻な環境負荷や環境劣化が生じて,国民の生活環境の低下が生じている。
(d)環境負荷や環境破壊を起こすなら支援を行わずに,法律によって罰する。
(e)法律や優良農業行為基準以上に環境を保全する農業者にのみ支援を行う。
(f)支援額は国民の納得できる論拠を持ち,農業者に支援する財源を確保できる。
(g)国民が,支援によって改善された環境を享受し,安全・安心な農産物の提供を受けて,支援の最終受益者が国民であることを認識できる。

 これらの事項と照合すると,次の疑問が出されるかもしれない。

(1)水田の生き物の減少は生活環境の低下をもたらしていると実感している都市住民はどれだけいるのか。
(2)減農薬栽培は安全・安心なコメの提供につながるが,減農薬栽培だけが対象で良いのか(有機栽培は対象外なのか)。
(3)支払を行う条件や農業行為基準を明確にできるのか。
(4)支払額をどのような論拠からいくらかにするのか。
(5)水田の生き物が豊かになったとして,都市住民はそれを享受できるのか。

 「(3)支払を行う条件や農業行為基準を明確にできるのか」は,現在行っている調査事業の結果から策定するとして,生物多様性では特に都市住民とのかかわりが問題になろう。生き物が豊かになった水田は住民の多い都市と距離的に離れている。イギリスは補助金を受けた農業者は都市住民に農地を散策できるように仕向けているが,都市住民が水田の生き物と触れあえる工夫が必要だろう。2005年6月の県農林水産委員会でも,この点に関連して,『まちむらネットワークとか,あるいは小・中学校における環境学習とか,農業体験学習とか、そういったものとの連携』が必要と,委員から指摘されている。
 最大の問題は,支払の論拠作りであろう。上述したNPO団体が農林水産大臣に行った政策提言では,農業行為別の公益的機能の支払額を定めて,1戸当たり250万円を上限に支払うとなっていた。2004年度の水田作農家の1戸当たりの平均農業所得はわずか39.2万円に落ち込んでいる。これは小規模農家も含めた平均値だが,3 ha以上の農家でも平均314万円となっている。これだけわずかな農業所得しかえられていないから,支払を行う必要性はいえても,どのような論拠からいくら支払うのかが争点になりそうである。
 2005年2月の福岡県知事の定例記者会見の議事録には,『「農の恵み」,これは,環境所得保障みたいな考え方を我々も取り入れなくてはいけないのではないかということを目指した非常に新しいモデル事業です。』と記されている。議事録どおりの「環境所得保障」だとすると,米価の下落が起きた場合,環境にやさしい農業行為を行った者には下落分を補填して,一定水準の所得を保障するように受け取られよう。また,「環境所得補償」であれば,米価の下落が起きても,下落分の保障ではなく,環境にやさしい行為に対して一定額の支払いを行って,下落分の一定部分を補うように理解できよう。このように,「保障」と「補償」では,支払論拠の発想が大きく異なるだろう。納税者の大部分を占める非農業者の理解を得る支払論拠作りと,支払額の設定が問題になろう。

●その他の公益的機能は対象にしないのか

 生き物だけに限定せずに,最近頻発している集中豪雨時の都市洪水を軽減する水田の洪水防止機能も対象にすれば,水田と都市住民とのかかわりをより実感してもらえよう。
 国土庁はかつて洪水防止について,水田の役割を重視していなかった。しかし,2001年度の土地白書において,『都市河川を始めとする河川の流域においては,急速な開発等により,本来流域が有していた保水・遊水機能の低下とこれに伴う洪水の流出状況の急変が見られ,近年洪水被害が頻発しており,また,湧水の枯渇,平常時の河川の流量の減少等水環境の悪化が起こっている。これらの災害等を軽減するためには,河川改修や遊水地等の治水施設の整備が重要であるが,それらのみでは,流域全体として十分な治水安全度を早急に確保することは困難であり,また,環境保全に対しても十分な効果を発揮できない。このような地域においては,流出増対策として,調節池等の治水施設を整備するだけでなく,ため池,自然池,水田等の保全,雨水貯留浸透施設の設置の推進を図ること等により,流域の持つ保水・遊水機能の保持・増進が必要である。』と記している。福岡市では2004年に集中豪雨で都市型洪水の起きたこともあり,こうした点も入れた方が都市住民の理解をえやすいではないか。
 2005年3月の県予算特別委員会では,支払対象の農家をどのように設定するかが問題にされた。環境保全目的の支払なら,栽培基準を設けて,それを遵守する農家を対象にすることが原則だが,委員会では農家の規模だけを問題にして,新しい制度が市街化区域の小規模農家を温存することになるのを警戒する発言がなされた。洪水防止機能も対象にするなら,この点も再検討する必要がろう。
 また,代かき直後の強制落水で水田から流出する窒素やリンによる表流水の富栄養化を軽減する水管理や施肥の改善も対象にして,農業と飲料水質の関係について,都市住民の理解をえることも大切であろう。滋賀県の「環境こだわり農業」では琵琶湖の富栄養化を防止するために,水田からの濁水の排出防止を重視している(環境保全型農業レポート.No.2)。
 農政にとって新しい制度を導入する福岡県の試みに期待するだけに,県民の支持を得られる制度になることを願っている。