No.375 EUにおける農業からのPM2.5の排出削減の費用とその便益

●PM2.5とは

 PM2.5とは,大気中に浮遊している2.5μm(1μmは1mmの千分の1)以下の小さな粒状物質(Particulate Matter)のことで,自然現象由来の砂漠の粉塵,森林火災などによるバイオマス燃焼粉塵などに加えて,工業,運輸,農業などの人為活動由来の炭素や硝酸塩,硫酸塩,アンモニア,アンモニウム塩,ケイ素,ナトリウム,アルミニウムなどの粒状粒子で形成されている。
 世界のPM2.5の排出源別濃度を概算した結果によると,農業由来のPM2.5濃度が他の排出源を上回っているのは,ヨーロッパ,アメリカ中央部と中国の北京西部で,これらの地域ではアンモニア(NH3)が他の物質の微小粒子を上回っている(S.E. Bauer, K. Tsigaridis and R. Miller (2016) Significant atmospheric aerosol pollution caused by world food cultivation, Geophysical Research Letters. 43: 5394-5400)。なお,アンモニア排出量は,その96%は農業活動(家畜生産による糞尿や化学窒素肥料の施肥など)に起因し,粒状粒子の形成,特にPM2.5の形成に貢献している。ただし,日本では農業のシェアが小さいため,アンモニア排出量の大部分が農業活動に起因しておらず,EUでの状況が当てはまらない。
 PM2.5は非常に小さいため,肺の奥深くまで入りやすく,呼吸器系や循環器系に障害を起こしやすい。
 PM2.5の基準について,WHO(世界保健機関)は,大気質指針として24時間平均25μg/m3,年平均10μg/m3を設定しているが,途上国のなかにはこれをはるかに超えている国が少なくないため,これよりも高い3段階の暫定目標値を定めて,大気質指針実現に向けた削減努力を促している。
 日本は,2009年に環境基本法によって,PM2.5の環境基準を,1年平均値15μg/m3以下,かつ,1日平均値35μg/m3以下と規定している。
 EUはPM2.5の科学的裏付けをもった環境基準値の設定が容易でないことから,加盟国にまず一定面積ごとの多数地点のPM2.5濃度を測定させ,その平均値が,人間の健康や植物への影響がないと考えられる許容上限濃度をどの程度超えているかによって,削減割合を提示し,規定された年次までに削減することを求め,規定された年次が進むとともに,許容上限濃度を次第に引き下げて,大気の浄化を図っている。

●EUの大気汚染規制に関する法律の概要

1)最初の大気汚染規制の法律は,「大気汚染物質の国別排出上限に関する指令」Directive 2001/81/EC on national emission ceilings for certain atmospheric pollutantsで,酸性化や富栄養化を起こしたり,オゾンの前駆体になる大気中の二酸化イオウ,窒素酸化物,揮発性有機化合物,アンモニアを削減するために,2010年と2020年を基準年にして,加盟国に大気汚染物質の排出上限を設定して,加盟国に人為的排出源からの排出削減を課した。

2)しかし,上記の法律ではPM2.5を構成する一部の汚染物質を対象にしたものの,その他の汚染物質を含めたPM2.5の削減目標などは記述されていなかった。そこで,PM2.5物質を含めて,サンプリングや評価の手法などの必要要件を追記した「ヨーロッパの大気質と清浄大気に関する指令」Directive 2008/50/EC on ambient air quality and cleaner air for Europeを交付した。

3)上記の法律などによる規制によって,1990年と2010年の間に,大気への排出量が,二酸化イオウ82%,窒素酸化物47%,非メタン揮発性有機化合物56%,アンモニア28%減少した。しかし,人間の健康や環境へのマイナス影響はまだ残っており,さらなる削減が必要になっている。このため,2016年に「大気汚染物質の国別排出量の削減に関する指令」Directive(EU) 2016/2284 on the reduction of national emissions of certain atmospheric pollutants, amending Directive 2003/35/EC and repealing Directive 2001/81/ECを交付した。この法律では,二酸化イオウ,窒素酸化物,非メタン揮発性有機化合物,アンモニアおよびPM2.5の5つの重要な大気汚染物質のEU-28国の国別削減約束を規定している。そして,EU加盟国には,2019年までに国の大気汚染防止プログラムを策定して施行することを求められており,4年毎に2020年と2030年の削減約束を遵守する方策を規定することになっている。アンモニアの主要排出源である農業においては,アンモニアの排出削減が少なく,2005年から2013年の間に5%減少しただけであり,2013年以降,アンモニア排出量は再び若干増加し,2013年から2016年に3%増加した。このため,アンモニアとPM2.5の排出抑制のために,2005年に比して,EU28か国全体で,2020〜29年にはアンモニアの排出量をどの年も6%,PM2.5の排出量を22%削減する義務を規定し,2030年以降にはもっと意欲的な削減約束として,アンモニアはどの年も19%,PM2.5については49%の削減を規定した。そして,加盟国ごとにこれを実現するために,各国の汚染の現状を踏まえて,2020〜29年と2030年以降のどの年の削減約束を達成するためのアンモニアとPM2.5の2005年に比べた国別の削減割合を規定した。そして,それを達成する国定優良農業生産工程Good Agricultural Practice for Reducing Ammonia Emissionsを策定し,農業におけるアンモニア排出削減を強化することを求めている。

●ギアニキスらの試み

 冒頭の“●PM2.5とは”に記したように,ヨーロッパでは,農業由来のPM2.5濃度が他の排出源を上回っており,アンモニアが他のPM2.5物質を上回っている。キプロスのギアニキスらは,ヨーロッパにおいて法律に準拠してアンモニアを削減したとすると,どの程度PM2.5濃度が下がり,それによって早死率がどの程度下がり,保険衛生上の便益が増えるのか,また,農業がアンモニアを削減する経費はどれほどかを,下記の論文によって試算した。
E. Giannakis, J. Kushta, A. Bruggeman and J. Lelieveld. Costs and benefits of agricultural ammonia emission abatement options for compliance with European air quality regulations. Environmental Sciences Europe (2019) 31:93. 13pp.
 ギアニキスらは,そのために下記を検討した。
 用いた分析手法は多様で,その内容は複雑なため,分析手法の記述は省略し,得られた結果を軸に説明する。その際の推論は次のように行なった。
(1)どの加盟国が2016年における2020年〜2029年のNH3排出上限を超過しているかを確認し,2020年〜2029年の約束を遵守するために必要なNH3排出削減量を試算した。
(2)Fast et al (2006)が開発したモデルを利用して,アンモニア排出削減にともなうヨーロッパにおけるPM2.5濃度の変化を推定した。
(3)アンモニア排出削減前と削減後のPM2.5濃度について,総合的暴露応答関数integrated exposure-response (IER) functionsに基づいて,一連の関連疾病と年齢グループについて早死率の低減を試算した。
(4)早死リスクを,非マーケット評価手法によって金銭換算した。
(5)農業からのアンモニア排出削減を図る対策として,家畜給餌の改善,アンモニア排出低減家畜糞尿貯留システム,アンモニア排出低減畜舎システム,低アンモニア排出の無機肥料施用技術の導入に要するコストを試算した。
(6)(4)と(5)の結果を踏まえて,農業におけるアンモニア排出削減のコストと,アンモニア削減によるPM2.5濃度の低減にともなう早死リスクの低減という社会的便益を比較して,アンモニア削減政策の在り方を論じた。

(1)2020年〜2029年の約束遵守に必要なNH3排出削減量

 2016年において2020年〜2029年のNH3排出上限を超過しているEU加盟国について,2020年〜2029年の約束を遵守するために必要なNH3排出削減量を試算した(表1)。
 2016年のNH3排出量が2020年〜2029年の排出約束レベルを大きく超過している国は,超過割合(%)では,ラトビア(15%),ドイツ,エストニアとイギリス(12%),スウェーデン(11%),フィンランド(10%)だが,超過重量(最右欄)では,ドイツ7.8万t,イギリス3.1万t,フランス3.0万t,スペイン1.7万tなどであった。そして,超過している16か国の超過総量は年間20.0万tであった。

(2)アンモニア排出削減にともなうヨーロッパにおけるPM2.5濃度の変化

 Fast et al (2006)のモデルで推定した地面近傍のPM2.5濃度は,中央ヨーロッパやポーランドおよびベネルックス諸国でピークを示し,平均年間濃度は16〜18μg/m3に達し,EUの現在の上限の25μg/m3よりも低いが,WHOのガイドラインの10μg/m3よりも十分に高いことが示された。PM2.5レベルが顕著に高い他の地域には,イタリア北部にある,ローカルなソースの輸送や広域ソースの化石燃料やバイオマス燃焼による工業に起因している地域,ならびに,大規模な石炭発電所が所在している,イスタンブール,グレーター・カイロやイスラエル海岸地帯のようなヨーロッパ南東部のメガシティがある地域が示された。
 NH3排出低減対策の適用によって地面近傍のPM2.5濃度が最も大きく低下した地域は,ヨーロッパ中西部のNH3排出削減量の大きな,特にドイツとイギリスであった。東ヨーロッパでは,PM2.5濃度は0.3μg/m3未満しか低下しなかった。

(3)アンモニア排出削減前後のPM2.5濃度における早死率の変化

 上記の(2)で推定した,アンモニア排出削減前後のPM2.5濃度で生ずる関連疾病による早死率の低減を試算した。このために,Cohen et al (2017)のパラメータを用いて,総合的暴露応答関数に基づいて,一連の関連疾病と年齢グループについて早死率の低減を試算した。関連疾病は,虚血性心臓疾患,脳血管疾患,下部呼吸器感染,慢性閉塞性肺疾患および肺ガンとした。年齢グループは,5歳未満,5-14,15-29,30-49,50-69,70歳以上に区分した。
 アンモニア排出削減によるPM2.5濃度の低下によって早死者数が減少した割合が5%を超えたのは,スカンジナビア諸国のフィンランドで13%,スウェーデンで9%,ノルウェーで9%,この他にエストニアとアイルランドも5%を超えた。早死者数の減少が2〜5%であったのは,イギリス,デンマーク,オーストリア,ドイツ,イタリア,スイス,ルクセンブルク,ポルトガルであった。

(4)早死リスクの金銭換算

 表1に示した2016年において2020年〜2029年のNH3排出上限を超過しているEU加盟16か国について,2020年〜2029年の約束を遵守するために必要なNH3排出削減量を削減した場合のEU16か国のPM2.5濃度に加えて,その低下にともなう,NH3の排出削減の必要のない12か国を加えたEU28か国のPM2.5濃度も推定し,さらに,EUに隣接している非EU国のPM2.5濃度の低下も推定した。そして,EU-16,EU-28,EU-28と隣接非EU国とを合わせたPM2.5濃度も推定した。そして,それぞれのPM2.5濃度の低下にともなう早死率の減少による経済的利益の金額を推定した(表2)。
 PM2.5濃度低下による経済的利益の金額は,EU-16で103億6974万ユーロ,EU-28で134億8821万ユーロと推定された。2020年のユーロの平均相場を125円とすると,EU-16で1兆2962億1750万円,EU-28で1兆6860億2620万円となる。

(5)農業からのアンモニア排出削減を図る対策コスト

 2016年において2020年からのNH3排出上限を超過しているEU加盟16か国について,2020年からの約束を遵守するために必要なNH3排出削減を達成するために,2016年の「大気汚染物質の国別排出量の削減に関する指令」にも記されている方策である,家畜給餌の改善,アンモニア排出低減家畜糞尿貯留システム,アンモニア排出低減畜舎システム,低アンモニア排出の無機肥料施用技術の導入に要するコストを表2に示した。対策コストはO. Oenema et al. (2012)がEU-27(当時)で調査した対策コストから引用したもので,調査した金額には幅があるが,Oenemaらが特定した25番目と75番目の百分位数の値を推定値の幅として表示してある。
 表2に示した家畜糞尿についての3つの対策は,その1つを実施するだけで削減目標を達成できる金額である。実際に対策を施行する際には,地域や農家の状況に応じて方策を組み合わせて実施することになる。
 表2で最も注目されるのは,PM2.5濃度の低下による早死率の減少による社会的利益の金額に比べて,NH3削減対策コストははるかに少額だということである。

●アンモニア削減政策の在り方

 EUは,アンモニアとPM2.5の排出抑制のために,「大気汚染物質の国別排出量の削減に関する指令」Directive(EU) 2016/2284で,2005年に比してEU28か国全体で,2020〜29年にはアンモニアの排出量をどの年も6%削減する義務を規定した。EU全体での6%の削減は,低窒素飼料のようなコスト効果の最も高い対策の施行だけでも達成できるし,コスト効果の最も低い対策(低排出畜舎)だけでも達成でき,これらのコスト総額は,アンモニア排出削減による健康上の経済的利益よりもはるかに安い。
 対策コストは,NH3排出量が削減約束を超過しているEU16か国の172万の家畜生産農場と157万の作物生産農場とが負担している。EUの一部の市民である農業者の負担だけで,社会全体が莫大な恩恵を受けているのである。このため,NH3削減対策コストを農業者の自己負担でなく,農業予算外からの税金で金銭的支援するといった,コストの再分配を図る必要性がある。