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…地域の歴史…
地域からみた江戸時代
 

社会の変動 幕府の政治改革 政治の行き詰まり(2)

俳人

芭蕉と同じ時期、形を飾ることでなく心を大切にする俳句を確立した兵庫の上島鬼貫(うえしまおにつら)。芭蕉の死後50年、芭蕉の心に戻る運動をすすめた与謝蕪村。まだ若く貧しい一茶に援助の手を差しのべた房総の女流俳人・織本花嬌などの活躍。

測量・地理学者

外国船が出没して緊張が高まる中、日本の国土の正確な把握と地図作成を使命とした男たち。50歳から勉強して全国を測量 、日本全図完成を目ざした伊能忠敬。間宮海峡を発見した間宮林蔵(まみやりんぞう)。世界の地理を翻訳・編集した箕作省吾(みつくりしょうご)、などがいる。

漢方医

初めてお産で手術を行なった香川玄悦(かがわげんえつ)。麻酔薬を研究し乳がん手術に成功した華岡青洲(はなおかせいしゅう)。杉田玄白らより早く人体解剖を行った山脇東洋(やまわきとうよう)。病状・病人をよく観察することを重んじる漢方医学者(古医法)から、手術など近代的医学の先駆者が出た。

蘭方医

杉田玄白(すぎたげんぱく)・中川淳庵(なかがわじゅんあん)・前野良沢(まえのりょうたく)らによる翻訳書『解体新書』は、医者や医学生に大きなショックを与え、蘭方(西洋医学)を志す人がふえた。彼らが勇んでやったのは天然痘のワクチン接種で、日本初の接種は佐賀藩医師・伊東玄朴(いとうげんぼく)が藩主の子に行なった。

儒学者

幕府学問所の塾長なのに、倒幕派の志士にも大きな影響を与えた佐藤一斎。藩校で愛情溢れる教育を続けた萩藩の山県周南(やまがたしゅうなん)。人びとのために健康づくりの本『養生訓(ようじょうくん)』を書いた貝原益軒(かいばらえきけん)。幕府の支配に使われた儒学が、学者によってさまざまな輝きを放つ。

国学者

中国で生まれた儒学でなく、日本古来の精神を明らかにすることを目ざした国学者たち。本居宣長(もとおりのりなが)のところには490人、平田篤胤(ひらたあつたね)には553人の門人(没後の門人は1300人余り)が集まり、大きなうねりとなって幕末・明治維新へと向かった。

蘭学者

シーボルトに蘭学を学んだ人びとは、全国で新しい学問や医療・教育の流れをつくっていった。中には、外国船の打ち払いを命ずる幕府に反対し、死に追い込まれた高野長英(たかのちょうこい)のように、幕末の激動の中に身を投じ散っていた蘭学者も少なくない。

海外体験者

鎖国が続く江戸時代、航海中にシケにあって遭難しロシアなど外国に流れ着いた船乗りたち。苦しみに満ちた海外生活ののち帰国した人びとは、貴重な外国の知識を日本にもたらし、最新医学の種痘(天然痘のワクチン)を伝えた人もいる。

文人大名

学問や文芸に優れ、政治も見事だった大名は多い。例えば、茶道に秀でた人には石州流尭山派をおこした郡山藩主の柳沢保光、不昧流の松江藩主の松平不昧などがおり、富山藩主の前田利保は本草研究に励み、これを産業おこしに生かした。

藩中興の祖

「藩主は国家人民のためにいる」経済的にどん底に落ちていた山形米沢藩を、産業おこしと藩士教育によって再建した八代藩主・上杉鷹山(うえすぎようざん)の言葉だ。高松藩の五代藩主・松平頼恭(まつだいらよりたか)、水戸光圀(みとみつくに)など藩再建に手腕を発揮した藩主たち。

受難の指導者

用水開発で大きな成果を上げながら、キリスト教信者ゆえに藩から逃亡せざるを得なかった伊達藩の後藤寿庵(ごとうじゅあん)。勢力争いや、藩主の交代、幕府との関係変化などによって、業績もあり有能であるのに報われず悲劇の結末を迎えた先人たち。

藩内の分裂

攘夷論は、幕府を倒し天皇の治める国を目ざす尊皇倒幕と結びつき、尊皇攘夷派と佐幕派(幕府を大切にする)とが激しく対立した。藩では、上級武士は幕府と朝廷が協力する方向=公武合体派の立場をとり、下級武士は尊皇攘夷派となることが多かった。

幕府への叛旗(はんき)

大阪では大塩平八郎(おおしおへいはちろう)が民衆の苦しみを招く商人・幕府に抵抗して挙兵(1837年)。尊皇攘夷を叫ぶ天誅組や天狗党が武力行動をおこすなど、幕府政治への抵抗が始まった。長州・薩摩藩では尊皇倒幕に藩の方針を統一し、幕府との戦いに踏みきった。

世直しと庶民

「世直し大明神」の幟を立てて米屋・酒造家などを襲い、借金帳消しや物価引下げなどを要求した一揆勢。貧困のもとである外国貿易と商人の暴利を絶つために、横浜襲撃に向かったが、その世直しは明治新政府によっても叶えられることはなかった。

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