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近世日本の地域づくり200のテーマ

衣食住文化の成熟

[97]綿栽培

◆「衣料革命」に支えられて拡大した綿作

 わが国ではじめて綿が植えられた場所は、 三河 みかわ (愛知県)だといわれています。綿花は亜熱帯の作物ですから、夏の日照りと開花前の降水が必要で、温暖で肥料を豊富に施すことのできる余裕のある地域で栽培が始まりました。江戸時代のはじめには畿内とその周辺、中期には瀬戸内海沿岸へ、そしてさらに関東や 伯耆 ほうき (鳥取県)などへ作付けが拡大していきました。 元禄 げんろく 十年(一六九七)に刊行された『農業全書』(宮崎安貞著)では、 河内 かわち 和泉 いずみ (いずれも大阪府)、 摂津 せつつ (大阪府西部と兵庫県東部)、 播磨 はりま (兵庫県)、 備後 びんご (広島県)の五ヵ国が、土地が肥沃で、綿を植えて多大な利潤をあげていることが紹介されています。

 木綿衣料は江戸時代以前は大半を輸入に頼っており、それだけに高級衣料でした。庶民の衣料は麻織物や紙布でした。それが国内で生産されるようになって「衣料革命」が起きたのです。それまでの主な衣料であった麻織物に比べて木綿は、肌触り、保温性ともよく、染織しやすいなどの理由から、急速に庶民の間に普及していきました。

◆夏には畑一面に白い花が咲く

 綿栽培が盛んだった河内中・南部や和泉では、全耕地面積に対する綿作の比率は四〇~六〇パーセントに達していたものとみられます。この地域では 宝暦 ほうれき 年間(一七五一~六四)前後を最盛期に、明治二十九年(一八九六)に綿花輸入が自由化されるまでの長い間、綿はもっとも重要な商品作物として栽培されつづけました。河内での綿作の発展は、 宝永 ほうえい 元年(一七〇四)の大和川付け替えのあと、開発された広大な新田が多いに寄与しました。かつて川床であったことから稲よりも綿の栽培に適しており、その面積のほとんどで綿を栽培するところもありました。

 摂津の西部地方、とくに 武庫 むこ 川の東岸や川下の新田地帯(尼崎市)で綿作がさかんに行われました。 享保 きようほう 末期から 寛保 かんぽう 年間(一七三〇~四四)には、田畑への綿作率は平均で二八~二九パーセントくらいで、多い村になると五〇パーセント以上もの田畑で綿がつくられました。 播州 ばんしゆう 地方でも綿作がさかんでしたが、とくにさかんだったのは 加古川 かこがわ 域一帯の平野部でした。この地域では田畑全体の五〇パーセント程度に作付けされる村が多く、畑にほとんど綿を植えるという村も多くみられました。

 三河では一六四〇年代頃、東海道の宿場町 池鯉鮒 ちりゆう 宿( 知立 ちりゆう 市)の店先で木綿が売られていたことが知られています。生産は 矢作 やはぎ 川下流にあたる碧海郡がさかんでしたが、次第に生産地は三河湾に面した平野部に広がっていきました。綿作と木綿織生産は、農家で一体として行われていましたが、夏になると畑一面が白い木綿の花でおおわれ、冬になると農家の女性の手によって真っ白な木綿に織り上げられていきます。

  甲斐 かい 国(山梨県)で綿作がさかんだったのは、甲府盆地西部でした。 御勅使 みだい 川扇状地を中心とする地域、それに 釜無 かまなし 川氾濫原の甲西町、竜王町などの地域でした。吉田村(櫛形町)では享保二十年(一七三五)に耕地面積の三六パーセントに綿を栽培していましたが、それが 文化 ぶんか 十一年(一八一四)には四七パーセントにまで増えています。西野村(白根町)でも、 寛政 かんせい 元年(一七八九)二八パーセントだったものが、 慶応 けいおう 四年(一八六八)には六五パーセントにまで作付けが増えました。 南湖 なんご 村(甲西町)では、夏作をみない、といわれるほど畑全体に綿作が行われていました。甲府盆地西部は綿が育つ夏季の高温、小雨と砂土または 礫質 れきしつ 砂土の土壌で、比較的綿作に適した条件を備えていたようです。

 土壌でいえば、鳥取県の弓ヶ浜半島も綿作に適した土地でした。この地方で綿作が行われるようになったのは 延宝 えんぽう 四年(一六七六)といわれます。元来綿は排水のよい砂質の土壌と、開花期の高温、 開絮 かいじよ (綿実が熟して吹き出ること)期には乾燥を必要とするとされます。この条件からいえば弓ヶ浜半島は綿作の適地でした。この地帯は水利の悪い不毛の荒地多かったのですが、元禄年間(一六八八~一七〇四)以降の米川の開削によって、綿作ができるようになりました。また綿作には多くの労働力を必要とします。小農、小作農の多いこの地区の農民の安価な労働力が豊富に供給されたことが、その発達を促しました。

◆多くの現金収入をもたらす魅力的な商品作物

 綿作はこのように自然・地理的条件のほかに、たくさんの人手を必要としました。したがって、豊富な労働力が確保できることが綿作のもう一つの条件でした。さらに綿作をするには、たくさんの肥料が必要でした。三河湾、大阪湾、瀬戸内海など、綿作が発展した地域の付近には肥料にする雑魚が豊富に入手できる漁業基地がそばにあることも条件になったでしょう。金肥といわれて、高い代金を払って確保しなければならない 干鰯 ほしか 〆粕 しめかす を大量に投与しなければならない綿作は、少しでも輸送コストがかからない近隣の海にこれらの供給地があることが望ましかったのです。

 綿作がこうして拡大していったのは、ほかの作物、とくに稲作と比べて収益性が高かったことが大きな理由です。河内国の一農家の史料から作成された、稲作と綿作の比較では年度による違いはあるものの、綿作は稲作の平均二倍以上の収益をあげていたことがわかります。多い年では三倍ということもありました。肥料代などの諸経費がこの史料には表れていませんが、綿作の反当りの収穫量の有利性は明らかです。それだけではなく、綿は換金しやすく、糸・木綿に加工することによってより多くの収入を得ることができます。また種も油の原料に利用されるので収入源の一つになりますし、収穫したあとの綿木は焚き付けに利用されました。反面、綿作は稲作に比べて多くの肥料と労働力を必要とし、また年による豊凶の差も激しいなどのリスクもありました。それでも綿は農民にとって、多くの現金収入に結びつく、魅力溢れる商品作物だったのです。

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