口絵

<災害と復興>総合解題 「大変」の構造——災害と近世社会——

「災害列島」日本の災害は自然的条件と社会的条件の両面からとらえられる。江戸時代以来続く「御救」と「普譜」という復興方式は再検討すべき時期。「必ずやってくる」災害を防ぐ基礎は自然に対する観察眼を養うことだ。

富士山砂降り訴願記録(相模)<ふじさんすなふりそがんきろく>

宝永4(1707)年の富士山噴火による被害のとくに大きかった小田原藩領足柄郡の村々は,食糧の無償支給と耕地の復旧などを藩当局に求め,粘り強い訴願を繰り返した。その交渉の克明な記録。

富士山焼出し砂石降り之事(相模)<ふじさんやけだしすないしふりのこと>

富士山の噴火による降灰,それによる酒匂川の氾濫と,その治水のための復興費用の獲得,堤防工事の実際を詳述する。田中丘隅が石積みの堤防をつくって一応の完成をみる。

浅間大変覚書(上野)<あさまたいへんおぼえがき>

天明3(1783)年の浅間山の噴火の開始から大噴火にいたる経過,大噴火のようす,被害状況,噴火後の物価騰貴,飢饉,幕府による検分など,「大変」の一部始終と復興のようすを臨場感あふれる筆致で描く。

嶋原大変記(肥前)<しまばらたいへんき>

寛政4(1792)年,雲仙・普賢岳が噴火し,加えて眉山が激震とともに大崩落して津波を誘発した。その被害は対岸の肥後にまで及び,「島原大変肥後迷惑」といわれた。その一部始終を記録する。

弘化大地震見聞記(信濃)<こうかおおじしんけんぶんき>

弘化大地震は「善光寺地震」ともいわれ,震動による被害のほか,火事,山の崩落による川のせき止めと,それによる水没,川の決壊による洪水など二次災害が大きかった。絵図とともに記録する。

大地震難渋日記(大和)<おおじしんなんじゅうにっき>

嘉永7(1854)年,東海から伊勢・伊賀・大和の各地に2度の地震が襲い大きな被害を与えた。本書は,2度の大地震の大揺れのようすを「馬が腹の皮をうごかすごとく」などと写実的に描写する。

高崎浦地震津波記録(安房)<たかさきうらじしんつなみきろく>

元禄16(1703)年,関東諸国を揺るがした地震は大津波を誘発し,房総半島の沿岸はとくに大きな被害を受けた。著者はこの津波被害を客観的,具体的に記録し,子孫への訓戒としている。

大地震津波実記控帳(志摩)<おおじしんつなみじっきひかえちょう>

嘉永7(1854)年,志摩国を襲った地震・津波の記録。庄屋を務めていた著者は,150年前の地震・津波の教訓がいかされなかったことの反省にたち,災害の実情と復興の実際をつづって後世に残した。