しらべ学習館 > 
…地域の歴史…
地域からみた江戸時代
 

人びとの生活文化(3)

焼酎(しょうちゅう)・泡盛(あわもり)

清酒づくりには暑すぎたり米の生産が少ない地域では、焼酎が人びとの楽しみだった。米や麦、さつま芋を発酵させたあと蒸留して、アルコール度の高い酒をつくる。薩摩の芋焼酎、長崎壱岐の麦焼酎、熊本球磨の米焼酎、沖縄の泡盛などだ。

そうめん

小麦粉をねって手で細く伸ばすそうめんは、適した気候の地域で、よい小麦を使い、優れた技術によってつくられる。名産地の奈良三輪地方から香川の小豆島に伝わり、小豆島の人が島原半島西有家町に移り住んで技術を伝えた。

鰹節(かつおぶし)

大阪市場で好まれたのは、土佐節・薩摩節・熊野節(紀州産)。熊野では鰯の生餌をまいて鰹を釣る方法を開発。鰹節の表面にカビをつけて日持ちをよくし旨味と香りを出す今日の製造法を発明したのも江戸時代の紀州の漁師たちだ。

食品各種

地域の産物と気候風土をいかしたアイディアと技が光る。例えば、富山礪波の干し柿、栃木壬生のユウガオとかんぴょう、水戸の小粒大豆と納豆、彦根の牛肉味噌漬けと干し肉、琵琶湖周辺のフナズシ、江戸の海苔、新島のクサヤ、京都の湯葉など。

干鰯(ほしか)

綿・菜種・煙草・藍・野菜類などの商品作物の生産を高めたのが、鰯からつくる肥料の干鰯。漁業の先進地であった和歌山からやってきた漁民たちが大規模な鰯(いわし)漁を伝えたことで、千葉県九十九里は最大の産地となった。

煙草(たばこ)

江戸時代の初め、幕府は煙草の禁止令を出したが、先進地鹿児島で栽培にさまざまな工夫がこらされた「国分煙草」が有名ブランドになったことをきっかけに、各地に産地ができていった。産地による等級づけも盛んに行なわれた。

薬草

八代将軍吉宗のとき、薬になる植物を調べて集めることや、輸入薬で高価な薬用人参などを国内生産する機運が高まった。小石川など幕府の薬草園の整備が行なわれ、各藩や一部民間人も薬草園を開いて薬用植物の収集や栽培を始めた。

製薬・売薬

越中富山の薬売りは藩主の支援も受けて、勝手に他の藩に入りこめない時代に全国を毎年定期的に行商して歩く組織と信用力をつくりあげた。大阪道修町は、輸入・国産の薬問屋がたち並び薬流通の拠点に。

花と植木

江戸時代は大名から町民まで花や植木を楽しんだ時代。江戸の染井村は、イギリス人学者を驚かせたほど世界でも最大の園芸センターだった。将軍吉宗は各地に桜の名所をつくり、各藩でも植木・花の生産や品種改良が盛んになった。

焼物

茶の湯で使う茶碗や花入れなどの名品から、庶民が日常生活で使う茶碗や皿・壺・かめ・すり鉢・火鉢などまで、西の「からつもの」(唐津焼)、東の「せともの」(瀬戸焼)が代表するように、陶器・磁器の生産が各地におこった。

陶磁器―朝鮮文化を吸収

佐賀の有田焼、山口の萩焼、鹿児島の薩摩焼など、豊臣秀吉の朝鮮侵略のとき各武将が連行した朝鮮人陶工たちによって、優れた陶磁器の生産が行なわれた。有田焼はその彩色の美しさが世界で人気を呼び、大量に輸出された。

木工品・漆器(しっき)

ろくろ(回転する刃物)を使ってお椀やお盆を切り出す木地師が各地で活躍。これを美しく塗る漆塗りは、よい漆が育ち、湿気が多いところが適地で、輪島(石川県)、会津(福島県)、木曾(長野県)・飛騨(岐阜県)・津軽(青森県)などが名産地に。

美術工芸

持ち物をきれいに飾りたいのはいつの世も同じ。江戸時代には本阿弥光悦のように、刀の鞘や鍔を飾る漆細工から、出版物・楽焼・すずり箱までデザインするアートディレクターもたくさん登場。各地で祭の屋台や山車に見事な飾りがつけられた。

宗教

キリスト教禁止を徹底するため、幕府は寺に戸籍・住民票管理の仕事をさせ、人の誕生から死亡までのあらゆる届出先は寺だった(「宗門人別改帳」「寺請制度」ともいう)。人びとの寺や住職とのつき合いは深く、念仏講や花祭り・彼岸会などの行事は地域の暮らしにとけこんでいた。

新しい宗教

幕末にさまざまな事件や騒動がおこり、社会不安が高まる中で、庶民を教祖とする宗教がおこり、人びとの信仰を集めた。奈良県の天理教、岡山県の金光教・黒住教は、家族や本人の病気などで苦しんでいた人が神のお告げを受けて始めた。

庶民の信仰

船玉、エビス、金毘羅などは、魚の豊漁や海の安全を祈る神々だ。地域それぞれに、生産や暮らしを守ってくれる数々の神仏がいて、人びとは厚く信仰してきた。なくなった子どもの供養をして自分の心も安らげる地蔵信仰も各地にある。

山岳信仰

古くから、人びとは高い山には神が宿ると考え信仰してきた。江戸時代には、富士山などの霊山に登って参拝することが盛んになり、御師(おし)が案内し参拝の指導をした。出羽三山などでは、山のもつ霊験を身につける山伏(修験者(しゅげんしゃ)ともいう)修行が行なわれてきた。

神事

収穫が終わったあと田の神様を家に呼んで数々のご馳走やお風呂でもてなし、狩りで獲れた動物を山の神様に捧げて食べる。これらの儀式は、自然の恵みに感謝し、ともに分かち合って生きる農山村の心を伝えている。

遍路

距離1400km、88カ所の霊場をお参りして回る四国遍路は、江戸時代中ごろから庶民も行くようになった。ガイドブックも出て、遍路道では地元の人びとによる茶・食べ物・わらじなどの接待や、宿の提供(善根宿)が行なわれた。

お蔭参(かげまい)り

徳島城下の子どもたちの突然の出発がきっかけで、熱狂的な伊勢参りブームになった文政のお蔭参り。町中が浮かれ踊った幕末の「ええじゃないか」。封建社会は行き詰まっているのに、行く先が見えない不安な時代に起こった民衆の行動だった。

↑このページのトップへ