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…地域の歴史…
地域からみた江戸時代
 

人びとの生活文化(1)

年中行事

商業の盛んな町ではたくさんの人が集まり商売繁盛を賑やかに祈りあう行事、農村では稲が豊作で災害のないことを祈り収穫を祝う生産と結びついた行事、古い都では神や仏にかかわり深い行事、と、地域の個性豊かに行なわれてきた。

山の暮らし

奥山に住んで、藩の森林保護の仕事をうけ負いながら、山の動植物をとって生活し、山を焼いて何年か作物を育て再び自然に戻す(焼畑)。山村には稲作農業の村以上に、自然とともにある生活習慣や文化が伝わってきた。

島の暮らし

水不足、動物の害など島であるための困難もある。しかしそれを乗り越え、島内の条件や産物をよりよく活かす工夫が、どこの島にもある。山口県見島の見島牛、八丈島の黄八丈、鹿児島県の甑(こしき)列島の葛やフヨウを使った衣類など。

働く女性たち

女性は男に従って耐え忍んでいたというのは、おもに武家社会のこと。たとえば養蚕の村は、蚕の世話から糸つむぎ、絹織りまで、女性の働きがあって、たくさんのお金を稼いでいた。村に町に一家の大国柱として生きる女性たちがいた。

たくましい女性たち

相模原市の農家の女性グループは天保年間、秩父巡礼から善光寺、さらには日光まで30泊31日の旅をした。自由を求めて離婚する女性、暮らしや世の中を見つめ日記に書き続けた女性、などなど、実はたくましく生きていた。

子どもの行事

小正月のトンド、春を呼ぶ流し雛、夏のカッパ祭り、など子どもが主役の行事はたくさんあり、地域の人みんなの楽しみだった。行事に参加する中で、子どもたちは地域の一員として生きるうえで大切なことを身につけていった。

子どもの学習と遊び

寺子屋の1年の授業日数は約300日、毎日の学習時間は6、7時間。江戸時代の子どもの教育は世界でもトップなレベル。寺子屋へ通いながら家の手伝いをし、地域の行事にも参加するという忙しい生活の中で、さまざま遊びを工夫した。

講のいろいろ

富士山詣でのために仲間でお金を積み立てる富士講、伊勢参りのための伊勢講が江戸時代に盛んになった。近所の家々が集まって拝んだあとご馳走と酒で歓談を楽しむ庚申講、浄土真宗の御講などは、楽しみであり、結束を強める場であった。

さまざまな生活慣習

男の子が7歳になったら冷水で心身を清めて山の神社に「初参り」。家長の座を元気なうちに息子にゆずって「隠居」生活。などなど、人生には健康や家の繁栄を願うさまざまな儀式や習わしがあり、地域それそれぞれに受けつがれてきた。

歌と祈り

沖縄やアイヌの人びとのあいだでは、恵みをもたらしてくれる自然や神々と一体になって、祝い祈り感謝をささげる歌や詩が伝えられてきた。そのなかには地域のみんなが助け合い、ほかの生物も大切にする生き方を伝える物語も多い。

説話・伝説・とんち

熊本の彦一頓知話、長崎の勘作ばなし、三重の権兵衛伝承などなど、腹を抱えて笑いながら、庶民の正義感や支配者への風刺、助けあって生きる知恵などを伝え合う物語が、盛んに村々で語り継がれてきた。

生活から生まれた祭

青森の「ねぶた」は、各地で広く行なわれていた「眠り流し」がもとになっているといわれ、そのときに使われる灯篭(とうろう)は、物資や交流が進んだ江戸時代に発展した。祭を運営する人びとも、「博多どんたく」のように近世にできた町の組織が基礎になっているばあいが多い。

祭を育てたエネルギー

江戸の山王祭・神田祭で、豪華けんらん知性豊かな山車づくりを競ったのは神社の氏子たち。松江藩主が船で神社に参る神幸祭を、きらびやかな飾りと踊りの大パレード「ホーランエンヤ」にした漁師たち。祭は、庶民が育てて地域の心を表現してきた。

農耕行事から伝統芸能へ

稲作の作業をまねた歌や踊りを、神社や町の人びとの前で演じて、新年を祝い豊作を祈る行事が全国の農村で伝えられてきた。正月、田植え、雨乞い、収穫など農作業の節目の楽しみ演芸では村人たちがタレントだった。

民俗・郷土芸能

秋の収穫が終わったら練習開始、正月から江戸の武家屋敷と近郊の村を回り、笑いを届けて新春を祝って歩く「三河万歳」、ユーモアの中に風刺を込めた即興劇「博多にわか」。江戸時代の地域には芸能や民謡がたくさん生まれた。

食文化

1日3食や主食・副食・味噌汁の組み合せは江戸時代にできた。食材が全国から集まり商売人が多い大阪では料亭や仕出し屋がおこり、江戸では浅草周辺から茶店ができて繁盛、京都では宮廷料理や精進料理の流れを汲む「京料理」が登場。

観光

江戸時代も後期になると、人びとは国の神である伊勢参りを名目に、京大阪や善光寺、さらには金毘羅や宮島まで旅するようになった。旅館の斡旋(あっせん)や名所観光ガイド、芝居見物紹介、土産物店斡旋など観光業も盛んに。

温泉

草津・箱根・有馬・別府などの名湯は、初めは病気療養や休養など湯湯治でにぎわった。別府には農民の湯治はタダという温泉もあったほど。やがて江戸時代中頃から、旅行ブームに温泉ブームが重なり行楽客が押し寄せた。

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