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…地域の歴史…
地域からみた江戸時代
 

欧米諸国の接近 外交問題

外国船の渡来

オホーツク海にロシアが、長崎や浦賀に英・仏・米などが貿易と開国を求めて現われるようになり、緊張が高まった。幕府は初め打払い命令を出し、次いで薪・食料を与えるなどして交わしてきたが、ついに鎖国の夢を破るペリーの来航を迎える。

漂流民

北前船(きたまえぶね)や漁船がシケにあって遠い無人島などに流れつき、外国船に助けられるなどして数奇な運命をたどった事件は少なくなかった。日本帰国もままならなかったが、力強く生き日本と外国との国際交流を実現した人もいる。

来日した外国人

鎖国前、オランダ船で日本に漂着したイギリス人航海士ウィリアム・アダムス(三浦按針:みうらあんじん)は、徳川家康に気にいられ外交顧問となった。幕末開国後に来日した外国人で、日本をよく観察・理解して、紹介する本を書いた人は多い。

対外防備

仙台藩士の林子平(はやししへい)は「外国船に備えて守りを固めよ」と主張したが、幕府は彼を処罰。頻繁に外国船が出没するにおよんで、北海道警備を津軽・南部藩などに命じ、長崎警備の充実を図った。佐賀藩はたくさんの大砲をつくって戦争に備えた。

外国との戦い

大名行列に突っ込んだイギリス人を薩摩藩の侍が殺害した生麦事件(1862年)を引き金に薩英戦争(1863年)が起こり、下関では長州藩が英・仏・蘭・米の艦隊に戦いを挑んだ(1864年)。倒幕・明治維新の中心となる2藩が、欧米の軍事力の強さを見せつけられた。

開国と鎖国の終焉

恐ろしい黒船で来たペリーの強い要求で、ついに幕府は開国(1854年)に踏み切った。しかし、国内には外国の圧力に対する危機感から幕府を批判する攘夷論(外国撃退の考え方)が生まれ、開国か攘夷かの対立が幕末の争乱に引き継がれていった。

朝鮮通信使

秀吉による朝鮮出兵で途絶えていた国交を家康が回復。将軍の代替わりに、朝鮮国王の信書を携えた使節団を受け入れてきた。一行が江戸まで旅する途中、日本の学者などが出迎えて文化交流。江戸では将軍謁見の儀式を中心に盛大な歓迎の宴が開かれた。

シーボルトと支倉常長(はせくらつねなが)

長崎のオランダ商館の医者シーボルトは、全国から来る熱心な弟子たちに教育しながら、日本の調査・情報収集を行なった。江戸時代初め、伊達政宗の親善使節、支倉常長はメキシコからスペインにわたりローマで法王にも謁見(えっけん)して帰国した。

鎖国の中の交流

長崎でのオランダ・中国との交易、対馬を通じての朝鮮との交流のほかに、沖縄琉球王朝は中国の支配下に入る形で貿易(進貢貿易)を続けており、北海道のアイヌは樺太アイヌ、さらにその先の沿海州方面の人びととも交易をしていた。

陶磁器―朝鮮文化を吸収

佐賀の有田焼、山口の萩焼、鹿児島の薩摩焼など、豊臣秀吉の朝鮮侵略のとき各武将が連行した朝鮮人陶工たちによって、優れた陶磁器の生産が行なわれた。有田焼はその彩色の美しさが世界で人気を呼び、大量に輸出された。

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