しらべ学習館 > 
…地域の歴史…
地域からみた江戸時代
 

新しい学問・思想の動き 宗教(2)

藩校と家臣の教育

300余りあった藩のうち280余りが藩校を設立。藩士に対して、庶民を治める指導者としての人格や教養を身につけさせることが主目的で、儒学などが基本科目だったが、やがて蘭学が入ってくると、それを採り入れる学校もふえた。

藩校と藩政改革

江戸時代後半、藩財政が厳しくなり規律も乱れる中で、藩校は経済の再建と藩政の改革、そのための人材の発掘などが大きな目的になった。成績優秀な者には身分の区別なくよい役職を与えるといった、新しい動きが出てきた。

庶民に開かれた藩校

熊本藩の時習館は、庶民でも優秀な者は入学でき農民の子で特待生になった人もいる。藩校をつくるときに庶民から寄付が集まった愛媛大洲藩校、分校がたくさんあって庶民も学んだ新潟新発田藩校など、藩校は教育センターになっていった。

郷学

藩営や村の共同で地方につくった学校が郷学で、おもに村役人や地主層などを中心にした庶民が学んだ。教育レベルが高く藩校より校舎も立派だったという岡山の閑谷(しずたに)学校には、他の藩からも生徒が集まった。

私塾の隆盛

寺子屋より高い知識や技術を教えるところが私塾で、武士・学者が個人で開くことが多かった。漢学・国学・蘭学など学問中心の塾のほか、習字・琴・絵画・茶道などおもに女子が学ぶ塾、馬術・剣術・弓術などの体育系の塾もあった。

高名な私塾

教師の個性も出て、有名な私塾には全国から人が集まった。例えば、ニセ門人も出るほどだった本居宣長「鈴屋」、四千人を越す塾生が学び人材を世に出した広瀬淡窓「咸宜園(かんぎえん)」、明治維新を担った志士が育った吉田松陰「松下村塾(しょうかそんじゅく)」など。

ユニークな私塾

同好の仲間が集まって文化交流の盛んな私塾もあった。大阪の混沌社には、漢詩や絵画をたしなむ商人・医者・武士などさまざまな人が集まった。商人が資金を出して開いた大阪の懐徳堂は、全国の学校と交流し学芸センターのような役割をになった。

寺子屋の普及

江戸時代の農民は役人の文書を読み農書で勉強するなど、学力向上に意欲的。6、7歳から通う寺子屋が急速にふえ、元禄時代の京都では女子も通った。維新前後の人口は三千万人、全国の寺子屋数1万3816、学ぶ子ども74万892人とある。

寺子屋の師弟関係

寺子屋の先生はお師匠様(ししょうさま)とよばれ、勉強のほか行儀や生活の心得なども一生懸命教え、生徒とのつながりが強かった。弟子たちは、卒業後もお師匠様をおりにふれて訪ね、先生に感謝する墓「筆子塚(ふでこづか)」を共同して立てることも多かった。

宗教教学

仏教の教えの研究と教育が盛んになった。日蓮宗で最高の教育を誇った飯高檀林(いいだかだんりん)(千葉県)では全国の僧が厳しい修行を積んだ。真宗王国富山県には尺伸堂(しゃくしんどう)・空華廬(くうげろ)ができて親鸞(しんらん)の教えの研究と教育を行ない、禅宗では座禅を中心とした修行が再興された。

庶民の心を捉えた心学(しんがく)

家が貧しく京都へ丁稚奉公(でっちぼうこう)に出た石田梅岩(いしだばいがん)の心学は、身分社会の最下層とされた商業・商人の意義と重要性を訴え、正直・勤勉・質素倹約・堪忍の大切さを説くものだった。人びとに自信と勇気を与え、信者と道場がふえていった。

社会教育

各地の若者組は村の消防や生産の活動、神社の祭や盆踊りなどの行事を受けもち、大事な役割を果たしながら地域を理解し大人になっていった。薩摩藩では郷中(行政の単位)ごとに、若者の年長者が指導者になりお互いに心身を鍛え学習に励んだ。

武道教育

平和な江戸時代には、剣道・槍術・射撃術などは戦闘に勝つことでなく、武士としての素養と人格を高める面が重視された(文武両道)。熊本藩で完成した水泳法は、速く泳ぐだけでなく芸としての奥深さをもつ泳法だ。

家訓(かくん)・店則(てんそく)

知恵と才能と勤勉によって力をつけてきた商人たちは、権力をもつ武士と折り合いをつけ、社会での信用を高めて、家業を守り発展させていくために、家族と従業員が守るべき人生訓や職業訓、営業方針と就業規則などを定めた。

宗教

キリスト教禁止を徹底するため、幕府は寺に戸籍・住民票管理の仕事をさせ、人の誕生から死亡までのあらゆる届出先は寺だった(「宗門人別改帳」「寺請制度」という)。人びとの寺や住職とのつき合いは深く、念仏講や花祭り・彼岸会などの行事は地域の暮らしに溶け込んでいた。

新しい宗教

幕末にさまざまな事件や騒動がおこり、社会不安が高まる中で、庶民を教祖とする宗教がおこり、人びとの信仰を集めた。奈良県の天理教、岡山県の金光教・黒住教は、家族や本人の病気などで苦しんでいた人が神のお告げを受けて始めた。

庶民の信仰

船玉、エビス、金毘羅などは、魚の豊漁や海の安全を祈る神々だ。地域それぞれに、生産や暮らしを守ってくれる数々の神仏がいて、人びとは厚く信仰してきた。なくなった子どもの供養をして自分の心も安らげる地蔵信仰も各地にある。

山岳信仰

古くから、人びとは高い山には神が宿ると考え信仰してきた。江戸時代には、富士山などの霊山に登って参拝することが盛んになり、御師(おし)が案内し参拝の指導をした。出羽三山などでは、山のもつ霊験を身につける山伏(やまぶし)(修験者(しゅげんしゃ)ともいう)修行が行なわれてきた。

神事

収穫が終わったあと田の神様を家に呼んで数々のご馳走やお風呂でもてなし、狩りで獲れた動物を山の神様に捧げて食べる。これらの儀式は、自然の恵みに感謝し、ともに分かち合って生きる農山村の心を伝えている。

遍路

距離1400km、88カ所の霊場をお参りして回る四国遍路は、江戸時代中ごろから庶民も行くようになった。ガイドブックも出て、遍路道では地元の人びとによる茶・食べ物・わらじなどの接待や、宿の提供(善根宿)が行なわれた。

お蔭参(かげまい)り

徳島城下の子どもたちの突然の出発がきっかけで、熱狂的な伊勢参りブームになった文政のお蔭参り。町中が浮かれ踊った幕末の「ええじゃないか」。封建社会は行き詰まっている、行く先が見えない不安な時代に起こった民衆の行動だった。

↑このページのトップへ