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…地域の歴史…
地域からみた江戸時代
 

新しい学問・思想の動き 宗教(1)

国学

国の学問とされた儒学(じゅがく)に対して、日本古来の心とか道について『万葉集』や『古事記』などの古典の研究を通じて明らかにしたのが国学。儒教や仏教の前に日本本来の神の道があるとする復古神道に通じ、幕末の尊皇攘夷運動の思想につながった。

幕藩体制を支えた学問

徳川家康は新しい国家をつくる思想として中国の儒学、とくに朱子学を採り入れた。上下の身分秩序、忠孝・礼儀という道徳を重視するもので、朱子学者の林家を政治顧問とし、学問所での家臣への教育も朱子学中心に行なわれた。

儒学

幕藩体制を守る理論には朱子学が最適と考えられ、他の学説を禁じる「寛政異学の禁」も出された。しかし、同じ儒学の中から、正しい人間性の現われを重視する陽明学や、人としての「道」を重視する古義学などが出て、朱子学に対抗するようになった。

算学

日本独自な非常に高いレベルの数学が和算だ。江戸時代初期にそろばんによるかけ算・割り算、利子計算、金銀銅貨の交換比率、測量などすべてできる『塵却記(じんこうき)』が出て、人びとはこれで学んだ。さらに高度な数学が和算家・関孝和によって完成された。

農学

江戸時代中ごろには、肥料や農具などの利用によって米の面積当たりの収量が向上し、米以外の商品作物の生産も盛んになった。こうした発展には、全国の農民や指導者によって書かれ多くの農民に読まれた「農書」が大きな役割を果たした。

医学

江戸時代中ごろまでは漢方医学が中心だったが、長崎を通じて入ってきたヨーロッパ医学(蘭方:らんぽう)を学ぶ動きが高まった。オランダ商館医シーボルトは鳴滝塾で外科・内科・産科・眼科などを教え、多くの蘭方医が育った。

蘭学(らんがく)

八代将軍吉宗が西洋の書物の輸入と翻訳を認めたことで、西洋の学問(蘭学)の研究が盛んになった。人体解剖の書『解体新書』の翻訳で火がつき、蘭学塾もできて人びとが殺到。天文学・物理学では世界でも最先端の研究成果が出た。

博物学

植物や動物・鉱物などの自然を研究する学問(博物学・本草学)が、江戸時代中ごろヨーロッパの自然研究の成果が伝わるなかで、非常に盛んになった。多くの学者たちが展示会、植物採集、図鑑の作成などに力を注いだ。

暦(こよみ)

800年間も使ってきた中国の暦を改めることになり、幕府の天文方のもとで、学者が苦心して何度も作成。「旧暦」と呼ばれる正確な暦が天保年間にできた。天文方の暦をもとに、全国各地で、農作業や行事などを入れた庶民に役立つ暦が作られた。

和歌・漢詩

江戸時代後半には、和歌と国学の結びつきが強まり、人びとは和歌を通じて日本の心や生き方を学んだ。これは漢詩も同じだった。国学流の和歌が「『万葉集』のようによむ」というのに反対し、「自然の感情をそのままよむべきだ」とする派が現われた。

俳諧

松尾芭蕉(まつおばしょう)の「奥の細道」は、名所・旧跡を訪ねて古人を思い、自然や人間について対話する旅であるとともに、各地で歓迎してくれる俳友たちと交流する旅だった。地方の町や村にはそれだけの俳句の実力と経済力があった。

美術

幕府や藩の御用絵師をつとめ大きな影響力をもった狩野派、上品で高級感ある美を生み出した琳派(りんは)(尾形光琳(おがたこうりん)による)、庶民に絵の楽しみを届けた浮世絵、それが発展した錦絵など、江戸のアートはすごい。
(※)浮世絵をはじめとした日本美術は、ゴッホやモネなどの画家たちに刺激を与え、印象派などの新しい表現を生むきっかけとなった。

茶道

江戸時代には千利休の教えを受けた大名たちによって豪華で贅沢な「大名茶」が盛んになったが、利休の孫の宗旦は「わび茶」の世界を取り戻すために働き、表・裏・武者小路の3つの千家ができた。また大阪中心に町人による茶道もおこった。

剣術

江戸時代の剣術は、武士が心身を鍛え藩や殿様の危急(ききゅう)に備えることが主な目的になった。家臣の稽古を指導する剣術指南役(けんじゅつしなんやく)は、幕府は代々新陰流の柳生家(江戸柳生)、鹿児島藩は薩摩示現流が務めた。上州では農民が自分を守るための農民剣法がおこった。

出版・貸本

出版はまず京都におこり、続いて大阪、やがて江戸で盛んになった。禁じられていた西洋医学の翻訳書『解体新書』のように、本屋の勇気ある活動で発行された本や有名になった作者は多い。庶民が買わなくても本を読める貸本屋も続々登場。

地図

伊能忠敬が全国の海岸を測量してつくった日本全図は内陸部分が空白。伊能以前あるいは同じ時期に、内陸部の精度の高い絵図作成のために、萩藩(山口県)の有馬喜惣太、徳島藩の岡崎三蔵のような地図絵師たちが、各地で奮闘した。

地誌

藩や国の歴史や名所・旧跡、交通、自然、産物などをまとめた地誌・郷土誌が各地で出された。領主の命令によるものと、学者が研究してまとめたもの、一般庶民が書き綴ったものがあり、今日重要な研究資料となっているものも多い。

図書収集・図書館

加賀藩(石川県)の尊経閣(そんけいかく)文庫や佐伯藩(さいきはん、大分県)の佐伯文庫など、藩主が本好きで図書を集めてできた文庫が各地にある。いっぽう、寺子屋の師匠、神主などが人びとのためにつくった公共図書館も出てきた。

好学な藩主

学問好きで、藩校をつくったり優れた学者を教授に招いたりして学問を奨励した藩主、自ら和算(日本の数学)や歴史、博物学などの研究をして優れた業績を残した藩主などがおり、地域全体に学問・文化に励む気風を育てた。

国学者

中国で生まれた儒学でなく、日本古来の精神を明らかにすることを目ざした国学者たち。本居宣長のところには490人、平田篤胤(ひらたあつたね)には553人の門人(没後の門人は1300人余り)が集まり、大きなうねりとなって幕末・明治維新へと向かった。

蘭学者

シーボルトに蘭学を学んだ人びとは、全国で新しい学問や医療・教育の流れをつくっていった。中には、外国船の打ち払いを命ずる幕府に反対し、死に追い込まれた高野長英のように、幕末の激動の中に身を投じ散っていた蘭学者も少なくない。

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