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…地域の歴史…
地域からみた江戸時代
 

江戸幕府の成立 大名統制

幕府の体制確立

幕府は、大名家の取りつぶしや領地の変更・取り上げを意のままに行なうことで権力の強さを示し、名古屋城新築など幕府の事業に資金と労力を出させる「お手伝い普請」、参勤交代制度などによって大名たちを従わせる仕組みをつくった。

一国一城令

豊臣氏を破り将軍の座についた徳川家康は、大名の軍事力を抑えて支配力を強めるため、各藩(※)の城は藩主が住むための城一つだけに限るという命令を出した。城の修理には幕府の許可が必要となり、新たな建設は禁止された。
(※)藩:大名が治めていた領地と、その仕組みのこと

相次(あいつ)ぐ築城

徳川将軍家は江戸幕府を守るために大名の配置がえを行なったが、これに伴い、また各藩は一つだけ持てる城を条件のいいところに置くために、城の造りかえが盛んになった。姫路城や松江城などはこのとき建造された。

城下町の形成

豊臣秀吉のころから、城は戦いに備えるためだけでなく、政治・経済の中心地の役割を担うようになった。城の周りでは商人や職人、寺院などが武家屋敷とは区分けされて配置され、米屋町・呉服町・寺町などの町名が付けられた。

藩政の成立

江戸時代は幕府の権力が強かったものの、藩ごとに政治や経済が営まれた。そのため、例えば財政難になったとき武士も働いて多くの地域産業を育て乗り切った米沢藩(よねざわはん)のように、大名や家老の考え方で独自な藩ができていった。

藩政の基本、農政

幕府と藩の財政源である年貢米を毎年安定して充分に得るためには、厳しく取り立てるばかりでなく、農民も楽になり喜んで生産向上に取り組むような運営が必要だ。加賀藩大名の前田綱紀がつくった改作法や、美濃国奉行岡田善政がつくった濃州国法などがモデルとなった。

藩政の矛盾

江戸時代の半ばすぎから、多くの藩が、財政難で借金がふくれ上がるという危機に見まわれた。この解決のために、武士たちの節約、土地面積の測り直しによる年貢の増加、新田の開発、特産物づくりなど財政再建策が各藩で行なわれた。

藩による産業振興

多くの藩は米の他の収入源として、特産物づくりに努力した。たとえば赤穂藩(あこうはん)の塩、姫路藩(ひめじはん)の木綿、松江藩のろうそく・朝鮮人参などで、商人との一手販売の契約や、加工・販売を担当する藩役所による取り組みが行なわれた。

独特な土地制度

農作物は災害に影響されやすく収量は年々変化する。また、よくとれる田畑と、とれない田畑がある。これに対して、農民の立場からは不平等や不公平をなくすため、大名の立場からは確実に年貢を取るための、土地制度が工夫された。

評定所は最高裁

やっかいなもめごとは藩や代官・町奉行に訴えたが、それでも解決できないものは江戸の評定所に訴えた。町奉行・勘定奉行・寺社奉行という3つの奉行による最高裁判所で、土地の境界争い、魚場争い、水争いなどを扱った。

お家騒動

藩主を取り巻く家臣(家来)たちの間では、ときに、政治・経済の政策のあり方や藩主の後継者などをめぐって対立が生まれた。対立が激化して騒動にまでなり、その事実が幕府に知れて藩の取りつぶしにまでなった例も少なくない。

町政と自治

江戸時代の町では、選挙によって代表者である町年寄を決め、会合を開いて町の運営や生活環境の管理を決め、みんながこれに従って暮らした。大阪の場合、3組600町からなり、各組に惣年寄(そうどしより)がおり、その指揮のもとで町年寄が町政を行なっていた。

住環境の整備

都市で問題になる水・ゴミ・糞尿(ふんにょう)の問題は、江戸時代の日本ではヨーロッパの大都市よりもはるかに上手に解決していた。捨てるゴミはできるだけ減らして埋立てに使い、糞尿は作物の肥料用に農村が引き取るリサイクルがいきわたっていた。

共同体と自治

大水害を共同で防ぐとともに、水をみんなが平等に使って暮らしてきた木曾三川の輪中の村々、水や水草を上手に使って田畑に栄養分を戻し湖のきれいな水を守ってきた琵琶湖周辺の村々。自然とよりよくつきあうための共同の姿がある。

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